平景清息女墓

熊本県 あさぎり町

平景清息女墓
平景清息女墓

平景清の息女墓と伝えられる墓石を奉っており、目の病気に御利益があるとされている。

墓石には「聞伝景清息女之墓此所也、享保壬寅七年(1722年)那須甚七」等と刻まれている。これは江戸時代に地元の庄屋が供養のため建てられたもの。

平景清は伝承によると平家の武将として知られ、壇ノ浦の戦いを生き抜き落ち延びた後も、源頼朝の命を狙い、死を覚悟して頼朝の目前に現われるが、頼朝はその武勇を讃えて命を助け、日向勾当に任じる。景清は平家への想いと頼朝の恩との間に悩み続け、自ら目を抉り取ったとも自害したとも言われている。

別説では平景清は肥後:人吉球磨へ落ち延びたとも云われ、その娘は父の後を追って岡原(現あさぎり町岡原)までたどり着いたとき、突然飛び出てきた黒猫に驚きゴマガラで目を痛めてしまう。

療養のために村でしばらく滞在していたところ、通りかかった門付けの歌唄いが、

「あゝ景清は白波の、消えてあとなき海の彼方に・・・・」

と父の死を歌うのを聞きいて絶望し、短刀で平家の旗を切り裂き自害して果てたともいう。

村人は不憫に思い塚をつくり手厚く葬った。それ以来この地を切旗と呼ばれるようになり、この土地では娘を哀れに思って、畑にゴマを作ってもは家にゴマガラを持ち込まず、黒猫も飼わぬようになったという伝承がある。

あさぎり町免田には景清の母とも恋人とも伝えられる虎御前の墓がある。