生善院(猫寺)

熊本県 水上村 国指定重要文化財

生善院(猫寺)
生善院(猫寺) 門前に猫の像

千光山生善院。江戸初期:寛永2年(1625)20代相良長毎が建立。後に猫寺という呼び名で有名に。観音堂は国指定重要文化財。相良三十三観音・二十四番所(千手観音)。

猫寺の由来
天正9年(1581)相良氏18代:相良義陽が響野原で討死。後継の19代:忠房は幼少だった。そこへ日向にいた義陽の庶弟:頼貞が球磨に入り、湯山地頭:湯山宗昌に接触。これが「頼貞と湯山宗昌が計っての謀反か・・・・?」といううわさが領内に広まった。

宗昌に謀反の意志は無かったが、頼貞に会った軽率を自ら戒めるため、実弟:盛誉法印のいる岩野(水上村)の普門寺で謹慎し、疑念をはらす事に勤めた。

天正10年(1583)。幼い忠房を擁立する相良氏重臣は噂を信じて宗昌と盛誉も共に謀反人として討ち取る為、兵を普通門寺へ向けた。

その直後盛誉は僧侶でもあり許す事となり、犬童九介ら3名の使者が兵を追って人吉を発った。ところが免田の茶屋(現あさぎり町免田)で酒に酔って遅れ、晋門寺についた頃には盛誉法印は討ち取られ、湯山宗昌は日向へ逃亡した後だった。責任を感じた犬童九介らはその場で切腹。

宗昌:盛誉の母(玖月善女)は、息子たちの無実を知って悲しみ恨みが積もっていった。やがて愛猫・玉垂と共に市房神社で21日間の断食祈願をこめて毎夜丑満に参拝し相良家を呪詛(のろい)をかける。

空腹に耐えかねた猫に自らの指を与える(又は指を切って血を吸わせたとも云われている)など、母の呪詛は日を追うごとに壮絶となり、ついに猫に向かって
「・・・亡霊となって相良家末代までたたり、恨みをはらせ!」と念を込めて、湯山・茂麻ヶ崎に愛猫を抱いたまま身を投げた。

これ以来夜になると猫の怨霊が女性の幽霊や夜叉となってあらわれたといい、19代相良忠房の急死を始め、相良家を祟り苦しめたという。

忠房の姉:明慈妙照尼僧は青井阿蘇神社に慈悲権現をもうけ、盛誉とその母の霊を慰霊した。それでも猫の怨霊はおさまらず、寛永2年(1625)相良長毎が岩野(水上村岩野)に生善院を建立。観音堂で盛誉の霊をまつり、母:善女のため生竜権現を建立。盛誉の命日3月16日、母の命日4月28日には当主自らも参拝し、領民にも参拝を促した。その後猫の怨霊はおさままったという。

生善院はこれらの出来事から「猫寺」と呼ばれるようになった。

湯山宗昌は頼貞が討たれた後嫌疑が晴れて天正年間中に球磨へ帰参。文禄の役(朝鮮出兵)の際、朝鮮・釜山で戦死したと記録にある。