球磨と相良氏の歴史・中世番外3
北原氏の人吉城攻め


 相良氏は外部から一度も外部から大がかりに領内へ攻め込まれていない、と書いたことがありましたけど、人吉城まで攻め込まれた事があったようです。(*1)

 球磨の歴史をまとめた 「求磨外史」によると、大永4年(1524)相良氏では、14代当主・長祇を人吉城から追い出した一族の長定が15代当主につくものの、家臣は支持せず、対抗して長祇の庶兄・長唯(のちの義滋)を16代当主として擁立します。
 大永6年(1526)5月、長祇の庶兄・瑞堅(長隆)によって長定は人吉城を追い出されますが、長唯と瑞堅(長隆)の争いが起こり、混乱が続きました。

 同年7月、肥後国境付近・日向の真幸院一帯に勢力をもつ北原氏が混乱のスキを突いて人吉へ攻め込んで来ます。

 北原軍は人吉城下の一向宗を扇動して味方につけ、梅花の森・中河原・宗慶寺地蔵山に軍を配し、人吉城を包囲。

北原氏の球磨攻め概略図
当時の肥後・日向の勢概図
 相良勢も上村氏をはじめ配下の諸氏が兵糧を送り込むなどして人吉城を救援、城からも打って出て北原勢と激突しますが、北原も包囲の手をゆるめず膠着状態に陥ります。

 やがて相良の援軍と思われる軍勢が松明を持って人吉へ押し掛け、赤池・十島・花立で北原勢を混乱させます。これで均衡が崩れ北原の軍は撤退。
 北原勢は日向て・伊東氏の援軍と判断し撤退したと云われています。援軍は伊東氏の軍勢ではなく、実は相良氏配下によるによる陽動作戦だったのです。

 人吉城を囲まれた当主・長唯(のちの義滋)は、祐玉寺の僧・樹薫に密書を持たせ密かに皆越(現あさぎり町・旧上村皆越)へ派遣(*2)
 密書を受け取った皆越の地頭・皆越守貞は、高土原(現在のあさぎり町・旧上村神殿原)でのろしを上げて誇示。夜になって100あまりの兵にたくさんの松明をも持たせ、大軍にみせかけて攻め込みます。さらに人吉城下や各地で「・・・・伊東の援軍がきた!」と、偽情報を流して混乱させています。
 北原氏は日向で伊東氏と対峙していたので、挟撃を恐れたのでしょう。

 今のところ、相良氏が大きく領内みに攻め込まれた事件はこれぐらいか・・・?(*3)

(*1) 単に管理人の資料不足だけだったりして・・・・(^_^;)
(*2) 皆越は球磨盆地の奥にあり、盆地側(北原勢)から動きの把握がしずらい地域である。皆越守貞は北原勢を追い払った功により、長唯から今井(現在のあさぎり町・旧上村今井)の田畑8町歩を領地としてを賜る。使者となった樹薫は遷俗し久保田志摩守と称させ刀と田畑三町歩を与えた。
(*3) 島津氏が水俣城へ攻め込んだ時は和睦(事実上降伏)で乗り切っているので回避していると判断しています。このほか薩摩勢が皆越から侵入し、白髪岳山中で雷雨のため撤退など、求磨外史など
に記述があるものの、詳細は不明。



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