球磨と相良氏の歴史・中世番外4
頼景流配の真相


文献により微妙な差

源平の盛衰から鎌倉の歴史を綴った「東鑑」、相良家伝来の文献「御家伝書」などに、上相良初代・相良頼景(下相良氏初代・相良長頼の父)流配にまつわる動きが描かれています。それぞれの記述内容に微妙な違いもあり、おもしろいです。


源頼朝が挙兵する前、後に球磨を支配する相良がいた遠江は平氏(平家)の支配地で、相良荘の相良頼景は平氏に従っていたようです。源頼朝が挙兵しその勢力が強まると、次第に遠江も源氏の支配となりました。

「東鑑」養和元年(1181)3月13日の項によると、当時源頼朝配下:安田義定は、橋本城改修のため夫役を集めたのですが、配下の相良三郎頼景や浅羽庄司宗信などはなかなか応じなかったようです。

安田義定が普請を巡視をした時、頼景と宗信は下馬をしないで打ち通る(走り抜けた)など無礼な振る舞いがあったとされています。そこで義定は鎌倉へ家臣・武藤五郎を遣わして訴え、相良頼景・浅羽宗信らは所領を没収されたとなっています。

「御家伝書」では相良頼景鎮西(九州)下向由来として、橋本城での普請場で相良頼景を初めとして三、四人が乗り打ちした(戦う)。とされています。そして鎌倉に訴えられ、頼景は九州遠流と決まり、建久4年(1193)肥後国求磨(球磨)郡多良木村へ流配されたとしています。

ここで頼景流配ということは、遠江:相良荘の没収は免れていたのでしょうか?

もう一つ、「求磨外史」(*1)という文献があります。ここではチョット違って、建久4年(1193)相良頼景は「領地を贈賜されて多良木に下向」した事になっています。流配ではないところが・・・・?

しかし当時の球磨の支配状態を記した、建久8年(1197)閏6月付「肥後国球磨郡田数領主等目録写」の中に、相良頼景の名も多良木の名もみられません。頼景が居たという多良木村は、百丁の没官領(旧平氏領)の公田地で、地頭は伊勢弥次良になっています。

さらに頼景の息子・長頼は、建久9年(1198)、肥後・人吉荘へ入国します。このとき人吉には、平氏の代官だった矢瀬主馬祐がいすわって退去せず、排除するため長頼は木上の地頭・平河高義の助けを得ています。

もし父・頼景が多良木を所領としていれば近隣ですから助力はあったはず。その記録は残ってはいません。これらの点から、相良頼景は領地を贈賜されて多良木に下向したのではなく、やはり「東鑑」「御家伝書」の通り流配され、伊勢弥次良のお預けの身になっていたのが、真相ではないでしょうか?

同然状(*3)では「お預け説」をとっているとか)。 

「東鑑」「御家伝書」は頼景の行動に問題があるような記述ですが、東鑑はともかく、相良氏の正史たる「家伝書」が家祖・頼景の罪を書くのですから、事件の背景にはやも得ない事情があったのでは?と思います。

「求磨外史」は江戸時代末、相良藩家老が藩主へ献上した文献であり。さすがに「藩主の先祖が流配・・・」と書くのははばかられ、遠慮もあったのでしょう。

流配された当時(建久4年)、頼景の年齢は75歳だったとされています。。

曖昧ですが、800年あまり前のことなので、今となっては文献が残っているだけ「もうけもん」の世界です。


(*1)
弘化4年(1847)、相良藩家老・田代政黼によって編纂された相良氏の歴史書。34代当主・相良長福へ献上された。相良氏と球磨地方の歴史を知る文献である。

(*2)
上村氏10代上村高頼の第2子・長国が、天文5年(1536)相良氏17代当主・晴広の諮問に答申したものを記述したもの。相良氏歴代の武功や、八代方面の支配。領主の修養などまとめている。同然状とは長国のおくり名「同然宗廟」からきている。




頼景・球磨流配はみせしめ?

平安末期から鎌倉初期の状況を見てみると、相良氏の元の在所であった遠江の国は平氏支配地で、当地の御家人は当然平氏との関係も深い。
結果第一の歴史観なら「平氏への不満が高まっていた時代だから、頼朝が挙兵したならすぐ源氏に味方した・・・・」と思いがち。

挙兵直後の源頼朝はまだ伊豆の流人。反平氏の北条氏らの後押しはあっても、先行きはまだ不明です。ここで東国の御家人たちが一族郎党・領民・所領の運命をかけて源氏へ寝返られるほど簡単な状況ではありません。相良頼景が源氏に味方する安田氏へ協力的でなかった事も、頼朝軍が富士川の合戦に勝った直後では、まだあり得る話です。もっと単に安田氏とのいざこざだけだったかも知れませんが・・・・・

源頼朝の勢力が決定的に有利になってゆくのは一ノ谷に戦いで平氏が敗れたあたりからでしょうか。そして源氏が天下を握ってから「“あのころ”協力しなかったのは、なぜか?!」と後から言われても、酷な話です。
これは相良頼景など協力的でなかった御家人をみせしめにして、発足間もない幕府(鎌倉政権)の権威を示すために利用したのでしょう。

中世の武士(領主)は、家臣・領民との関係・領地経営が上手くいって初めて存在できるものでした。簡単に領地を捨てる事はは出来ません。また領地に対して相当に執着心や自負もあったと思われます。頼景は一族・所領を存続させるため、泣く泣く息子・長頼に領地を託し、遠江から遙か遠い肥後・球磨へ旅立ったのではないのでしょうか?

頼景が許され流配地(上球磨)の支配ができたのは、息子・長頼が戦功によって人吉の地頭になった事もあるでしょうが、ほとぼりが冷めたころに寛大な態度をとれば、“汚名返上”とがんばるだろうって、幕府の狙いがあったと思います・・・・権力者ってのはいつの時代も、人の心を見透かして飴とムチを振りまわすんですね。

その後天下の権力者はみんな滅びました。でも相良氏は滅びずに続いたのは、この“苦難”が源にあったのかもしれません。


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