球磨と相良氏の歴史・中世番外1
相良氏入国前の球磨

 相良氏入国以前の球磨地方の詳細を知ることはで難しい様です。かなり曖昧で断片的ですが、いろいろあたってみると・・・・。

 平安初期・大同元年(806)、青井阿蘇神社が創建。大同2年(807)市房山神社創建、拝遙阿蘇神社創建。このへんが文献に残る最も古いものでしょうか。

 名類聚沙(931〜937頃成立)という文献に球磨の地名として、球玖どう(錦・現あさぎり町:旧上村・深田・須恵・免田付近)・久米郷(多良木町南部付近)・人吉郷(または臼麻郷)(人吉市付近)・東村(多良木町北部・水上付近)・西村(相良・錦町・相良村付近)・千脱(球磨村付近)の記載があります。
平安期に球磨で登場す地名(一部推定)
 康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録もあります。このあたりが球磨で最古の支配情勢の記録でしょうか。このほか久寿元年(1154)、平河氏が深田村に万福寺を建立しています。同じく深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。
 こういった事から相良氏入国以前は、平河氏が強い力を誇っていたと伺えます。

 平安時代末期・源平の争乱のころの球磨は平頼盛(平清盛・異母弟)の領地でした。その配下に入っていた人吉氏(矢瀬氏?)、須恵氏、久米氏、合志氏、平河氏が記録にあります。

 「東鑑」などによると、平氏滅亡後、その全所領は幕府に没収されますが、源頼朝は平頼盛の母・池禅尼によって助命された事から恩に報いるため、頼盛を助け領地を安堵しています。
 しかし文治2年(1186)、頼盛の死去で球磨は再び幕府領に。このような流転の中、球磨では有力武士が自領の地頭に補任されます。
平安後期〜鎌倉前期に球磨で記録があるおもな国人たち
 そんな状況の中で相良氏が人吉荘を拝領し入国。球磨の国人を支配下に組み込んでいくのは、室町時代、南北朝争乱の頃です。
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