相良家の文献「御家伝書」によると、下相良氏初代:相良長頼は、1205年(元久2年)畠山重忠の乱で二俣川の戦いが起こった際、鎌倉におり鎌倉殿方として参戦しています。
先陣を勤めた際、あまりに深追いするので味方の者が鎧の袖をつかんで止めたそうですが、長頼は意に介さず突撃! つかまれた袖が引きちぎれてもまま奮戦。敵を制したといわています。
この戦いで顔に傷を受け、甲冑の正面に突き跡が残るほどの激しい打突を受けながらもひるまなかったとか。このがんばりが求められ、球磨・人吉荘の地頭職を拝命する手柄となります。
父・頼景の罪をはらすには息子の手柄! 「ここぞ!」と飛び込んだのでしょう。もっとも討たれた畠山重忠は北条との権力争いによる“だまし討ち”といわれており、なんとも無情な話ですが・・・・。
長頼が身に纏っていた甲冑は“袖切りの鎧”として相良家の家宝として秘蔵していたそうですが、1710年(宝永7年)の火災で焼失したそうです。
武田氏の“御旗楯無”のように残っていれば宝だったのですが・・・・・
鎌倉殿三代・源実朝が甥・公暁に暗殺され、源氏直系血統が絶えます。幕府は執権・北条氏主動で、源氏血縁の藤原頼経を京から招き鎌倉殿(将軍)に就任させています。(*1)
このとき京では、朝廷の権力回復を狙う後鳥羽上皇と順徳天皇が執権・北条義時追討の院宣を発し、反幕府勢力を官軍として、1221年(承久3年)5月挙兵。
幕府は御家人を動員し京へ軍を進めます。当時鎌倉に参勤していた相良長頼は弟・宗頼(山北氏祖)、頼忠(佐原氏祖)と共に北条義房の軍に従って出陣。軍勢は京の東、近江国・瀬田で宇治川渡河を開始。長頼はその先陣に加わります。
宇治川の川底には進軍を阻害する杭が打たれ綱を張り巡らしていました。長頼は戦いながら綱を切って進軍し、後続の行軍を容易にしたといいます。
承久の変は鎌倉(幕府)軍の勝利に終わります(*2)。長頼は宇治川などの功績で執権・北条泰時から下文を賜り、故郷遠江・相良荘を所領として戻してもらい、播磨・飾磨郡にも領地を賜り、相良氏伸張に大きく関与したと思われます(*3)。
戦功を上げた太刀は“綱切の太刀”として知られ、備前宗吉の作・長さ二尺六寸(79.7センチ)あったといわれています。残念ながら昭和20年の鉄材供出で行方不明になったと・・・・・。
あれば国宝か重文クラスかも・・・?うーん残念!?
(*1)
三代・源実朝の暗殺後、以後の鎌倉殿(将軍)は源氏遠縁のある皇族・公家から招き、幕府・鎌倉政権の実権は執権・北条専制を強めていきます。
(*2)
後鳥羽上皇は隠岐島に順徳天皇を佐渡に流配。時期尚早と乱に直接加わらなかった土御門天皇も共謀の罪を問われ土佐へのちに阿波へ流配。その他公家や反幕勢力を処分し、没収した荘園などの領地約3000ヶ所を功のあった御家人に分け与えている。
乱の発端は摂津・豊嶋郡(現:豊中市)の荘園を巡る争いから起こったものではあるが、元々朝廷は鎌倉に与えた国司・地頭の任命権や征夷大将軍職を、平氏討伐の恩賞と義経討伐に与えた臨時的なものと考えていたようで、源氏直系血筋が絶えても返上しない事を朝敵とみなし、権力回復を試みた様である。源氏というカリスマのなくなった鎌倉政権(鎌倉幕府)に、全国の御家人が靡かないと考えての決起でしょうが、朝廷側に加わった御家人は少なく、幕府軍圧勝に終わる。以降、朝廷の権限は六波羅探題開設などで大幅に制限された。
(*3)
相良氏は人吉球磨のほか、鎌倉期の恩賞で肥後・豊後・筑後・播磨・遠江などに所領がありました。鎌倉時代の安定期は一族が統治したと思いますが、鎌倉末期以降は独立、近隣に併合されていったのでしょう。