現在観られる人吉城址は、球磨川と胸川の合流点にある丘陵と西の三角州に築かれた平山城である。
城の始まりは定かではないが、文献などによれば平安末期の人吉(人吉荘)は平氏・平頼盛の領地で、代官・矢瀬主馬祐が居城としていたという。
建久9年(1198)、遠江御家人・相良長頼が鎌倉幕府の命で人吉荘に入国。人吉城にいた矢瀬主馬祐は城から退去しないため、長頼は近くの木上地頭・平河高義の助力を得て討ち滅ばし入城。
長頼は正治元年(1199)頃から人吉城改築に着手。
人吉城・ 御下門跡の石垣
この工事中に城の南西の隅から三日月の文様がある奇石が出土した。これが元になって人吉城を別名三日月城、または繊月城(せんげつじょう)とも呼ぶようになった。
中世期人吉城は、現在の城址背後(南側)にある丘陵に築かれた連郭式山城であった。 東から下原城・中原城・上原城(本城)・西之城・出城で構成され、特に上原城は大規模な空堀が巡らされていた。ただし現在みられるような石垣はなかった。
室町時代~戦国時代。上相良氏を滅ぼし球磨を統一した11代・長続以降の相良氏は、芦北・八代・大隅・薩摩方面へ拡大を図り、本拠地を人吉と八代の両方に持ちながら、拡大を続ける。
水の手門前にある西洋式武者返し石垣
最上部の石垣が一段前へ突き出ている
18代・相良義陽の頃には最盛期を迎えるものの、島津氏の勢力が肥薩国境におよび始め、人吉城は防備改修が始まる。
しかし島津氏への敗北と従属、義陽が響野原の戦いで討死。後を継いだ19代・忠房も年少で急死するなどの為改修は中断。
人吉城が近世城郭へ本格的改修が始まったのは20代・頼房(長毎)の時代、豊臣政権下の天正17年(1589)頃から。朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで、何度か中断しながらも徳川政権の寛永16年(1639)まで続き、天守閣は未着工のまま工事は終了。
近世期人吉城は、それまでの丘陵部北側(球磨川沿い寄りの丘陵と河川の三角州)に城郭を造成したものである。
近世城郭の背後、中世期城郭のあった丘陵
城郭は球磨川と胸川を堀と見立て、重厚な石垣が幾重にも囲み、城背後の丘陵(中世期城郭)も南と東の防衛に活用。断崖・空堀・水堀などを巡らせ、容易に攻め込めない構造となっている。
城の建築物は大まかに高城(本丸)、御本城(二の丸・三の丸)、総曲輪から構成されている。天守閣は造営されず、代わりに護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸には藩主屋敷をおき、その東部:総曲輪には上級藩士屋敷と各種倉・藩政施設が置かれた。
外部(城下町)とは大手門・水ノ手門・原城門・岩下門などでつながっており、城の周囲は約2,200m。相良藩:2万2千石の小大名としてはかなり大規模で重厚な備えの城であった。これは徳川の対島津戦略の影響があったものと推測される。
徳川時代:相良藩(人吉藩)の人吉城は一度も戦場となったことはないが、文久2年(1862)2月7日の寅助火事(人吉大火)で城の大半が焼失。一部は再建されたが、明治維新・廃藩置県で城は取り壊され一部は売却。さらに明治10年(1877)の西南戦争では薩軍の拠点となって政府軍に攻められ、残った建物も失われた。移築された堀合門を除き現存する建物はない。
1961年(昭和36年)城跡(高城・御本城)が国指定史跡指定。近年になって一部の櫓・長塀・城門等が復元された。
2005年(平成17年)、人吉城歴史館が開館し、施設内で地下室遺構が保存公開されている。
胸川沿いの大手門と多聞櫓付近の写真
文久2年(1862年)寅助火事以前に撮影
球磨川下流側から撮影された角櫓付近
文久2年(1862年)寅助火事以前に撮影
城郭西側で胸川に面している。古写真で櫓形式門があり大手橋がかけられていた。
現在は市街路となって、北側に復元多聞櫓(写真左側)。
城北側、球磨川に面する水運のための門であったことから名付けられ、三間の板葺き建物であったといわれている。
人吉城は所々に舟着場が設けられたが、水の手門は最も大きな船着き場があった。
水の手門奥石垣には長櫓があったが、文久2年の寅助火事で焼失。再建せずに石垣を高くして(苔のない部分)、上端に「西洋式武者返し」というはね出した突出部をつけた。
これは西洋城塞の技術で、嘉永6年(1853)に品川台場や五稜郭(北海道)等の西洋式城郭で採用されたが、日本城郭で採用されたのは人吉城のみ。
武者返し石垣東側にあった門。明治維新後に家臣に払い下げ移築し西南戦争でも焼失を免れた。人吉城で唯一の現存建築物(市指定重要文化財)。
★移築された堀合門がある武家屋敷
★跡地には現在復元された堀合門があります。
堀合門跡の東にあり、「下の御門」とも呼ばれ本丸・二の丸・三の丸への登城口を守る門。大手門と同様に櫓形式門で櫓があったという。
西洋式武者返しと並んで人吉城を代表する石垣。
総曲輪の東南出口、中世城郭の丘陵と近世城郭の丘陵の谷間にあった門。付近には瑞祥寺があり一帯は武家屋敷街であった。
写真奧へ谷間の狭路を進むと麓馬場・相良護国神社前へ出る。
現在は門の痕跡をほとんど残してない。
総曲輪南端にあり鍵型の通路で西の胸川に向かっての門で瓦屋根の薬医門であった。門の南側には堀が作られ、背後は丘陵が迫り、城南側防衛の要所であった。
元禄4年(1849)、家老の宮原右衛兵門によって造築されたが、幕府への申請許可に問題があったらしく、責を負った右衛兵門は隠居を命じられている。
痕跡は石垣の一部を残しているのみ。
写真左角の建物が角櫓、中央の白い壁が長塀、その右奥の建物が多聞櫓
平成1年(1989)隅櫓復元。平成5年(1993)には多聞櫓・長塀復元。
胸川と球磨川の交流点、城の北西角を守る櫓。本瓦葺き入母屋造りと鍵形の平屋構造で壁は上部が漆喰大壁。下部が墨塗の下見板張になっている。外面に突き上げ窓がある。
瓦葺土塀。上部を漆喰壁と下部に腰瓦を張り付けた海鼠壁。2ヶ所に石落としが設置されている。
大手門横にある長櫓。角櫓と同じ構造で14の突き上げ窓があり、戦いの際はここから鉄砲・弓の射撃をおこなう。大手門を守る防衛拠点。