球磨と相良氏の歴史・近世10

対立・騒動は続く


 江戸中期は経済が発展し物価が上昇。石高による収入が決まってる幕府・諸藩は財政が行き詰まり始めます。そこで産業発展・新田開発等による増収政策は必至。しかし封建社会の建前と利害がせめぎ合い、そう簡単にはいきませんでした。

 相良藩では22代・頼喬以後、藩主が短命短期で変わり藩政・財政改革はて進まず、特に26代頼峰の頃は深刻な状態でした。


御手判事件

 26代藩主・相良頼峰の頃、享保の大飢饉に相良藩は財政難に苦しんでいました。そこで倹約令を出すのですが宝暦5年(1755)に藩内を大洪水が襲って、大被害を受けます。

  宝暦6年(1756)8月26日、家老方:菱刈友右衛門、万江長右衛門、米良半右衛門、片岡源之進・菊池衛士は、人吉城・御館大広間に藩士を集め、門葉方(*1):相良頼母・相良織部らの列席の元、藩士救済の助成法として、希望者に対し御手判銀(資金貸付け)の触れを出した。

 この制度に対して「藩士達が一層貧困になる!」として異を唱える家臣が続出。そして大目付:平山清右衛門・渋谷勘右衛門は、門葉方を尋ねて意見を述べ、江戸在勤中の藩主・相良頼峰へ訴え出る様に願い出た。

 門葉方は「良策と思い座列したものであるが、悪法であるなら由々しき事であるので、早速江戸表へ上申するが、書面だけでは説明が充分でないと思われるので、三名を向かわせる・・・」と指示した。

 この件は家老方に知られます。

 9月6日、門葉方から江戸へ飛脚を立てる指示が御状部屋(*2)へ出された。同時に家老方から詳細な事情説明を記した書状も添付。勝手方(*3)には、江戸からの指図が出るまで御手判銀の貸付け自粛を命じた。

 9月9日、平山清左衛門、豊原助太夫、平山喜左衛門が門葉方の命で江戸へ出発。このとき門葉方の書状には家老で勝手方の万江長右衛門への切腹をはじめ、お手判銀に関わった者を閉門・逼塞・遠慮など処分を内申した書状を持たせていた。
 一方、家老で勝手方の片岡源之進は門葉方でもあるため処分の具申から外されるなど、門葉方に都合良い具申がありました。これを知った家老方は反発。やがて家老方とそれを支持する家臣を大衆議。門葉方とそれを支持する家臣を小衆議(*4)として、藩を二分する派閥対立に発展します。

 対立を知った江戸の藩主・相良頼峰は「来年の帰国後処理するので、静粛に待て・・・・」と指示があり、どうにか対立は沈静化していきます。頼峯は門葉を支持していました。

 翌宝暦7年(1757)2月、相良藩重臣で家老方・田代家の養子となっていた家老・菱刈友右衛門の二男・喜三兵衛が田代家から離別される出来事が起こります。

 菱刈家では家の面目が立たぬと喜三兵衛を責め、厳しく処分すると激怒。門葉方は喜三兵衛を匿った。
 菱刈家と家老方は引き渡しを要求しますが、門葉方は喜三兵衛が御手判銀反対発起の一人で有力な証人であった為、引き渡しを拒否。

御手判銀貸付のからくり
藩士救済の資金貸付制度にはリスクがあった。
例えば家禄百石の藩士が御手判銀を借りた場合、1年間の上限・銀13貫目を借り年賦払となります。しかし家禄の内米で渡される36石中の約半分:17石5斗を藩で担保として差し押さえ、残り18石5斗を引き渡す決まりであった。
貸付けと同時に実質減俸。増収のない藩士たちは返済どころか暮らしが立ち行かなくなる恐れが・・・・。
小衆議藩士
御手判銀反対
相良織部 相良頼母
門葉方(藩主一族)

御手判銀反対

対 立
御手判銀推進

家老方(重 臣)
菱刈友右衛門
万江長右衛門
米良半右衛門
片岡源之進
菊池衛士
大衆議藩士
門葉方の強引さに反発
財政改革の対立が次第に
藩主跡継問題も絡んで
両派の対立はグタグタに
 家老方(大衆議派)は「喜三兵衛は陰険で、門葉方に匿われると謀議を計る恐れが・・・(*5)」として、家老の万江・米良の両家では藩士を集め実力行使も辞さない構えに出始めます。

 御手判銀貸付けの是非が争点だったのが、だんだん違う方向へ流れ出し・・・・ 人吉城下は騒然となり、家老方は「万一の際は門葉方であっても容赦せず弾圧する・・・」とまで江戸表(相良藩江戸屋敷)に知らせていた。
  このような中、藩主・相良頼峰が江戸在勤期間を終え、帰国する事に・・・。

 藩主・頼峰は家督を継ぐ男子がなく、江戸出立前に弟・頼母(門葉方)を仮養子で届けました(*6)
 この決定に反対する家老方と大衆議派は、”門葉方の相良頼母・仮養子指名で自分たちが不利なるのでは・・・?”として警戒。

 相良藩では藩主が参勤交代で人吉入する最後の宿泊地・一勝地(現球磨村)にたどり着いた際、門葉方が対面に赴く習慣がありました。家老方は「門葉方が家老方に不利な讒言をするのではないか?」など思い緊張します。

 そんな中で右田立哲という御扶持医が切腹。「殿様(相良頼峰)に毒薬を差し上げ、御舎弟(相良頼母)を御跡(次の藩主)に立てるという企みがあるので吟味下さい・・・・」と置書を残していました。

 8月4日、これを契機に藩主毒殺謀議とこれまでの対立で両派の主立った者が検挙されます。

 9月15日・片岡源之進、豊永瀬兵衛:切腹。
 10月2日・小笹新兵衛:切腹。
      平山清左右衛門、菱刈(田代)喜三兵衛:苗字・身分剥奪し死罪(斬首)。
      渋谷勘右衛門:遠島。
      その他10数名:逼塞。

 ・・・・毒殺謀議は名目で、対立の中心にいた両派家臣の粛正ですな。

 この騒動を後世、御手判事件と呼んでいます。しかし藩の公式文書には詳細な記録が少なく不明な点も多い。意図的に削除されたか、後の火災で焼失したのかは不明。

 この後、藩主頼峰は家老方を支持し、御手判銀貸付けは実行されます。しかし根本的な藩政・財政改革にはなりませんでした。

 翌宝暦8年(1758)4月12日頼峰は江戸へ参勤の途上に発病し到着後に死去。享年24歳。一説に毒殺ともされている。頼峰は子がないため、養子で弟・頼母が27代藩主となりますが・・・・


(*1)
藩主の一族、親類衆 頼母は25代藩主・相良長在の3男といわれているが、異説あり。

(*2)
書類を作成する部署

(*3)
財政・民政を主に扱う部署

(*4)
家老方に賛同する藩士の割合が多かったので大衆議、門葉方につく藩士が少ないかったので小衆議とのちに呼ばれた。

(*5)
菱刈(田代)喜三郎は、家老方に不利な情報を持っていたと思われる。

(*6)
藩主が世子(跡継)を決めていないまま急死した場合、幕府は藩を改易(取り潰し)にする事があった。あらかじめ不測の事態に備え仮養子を申請しするケースがあった。




竹鉄砲事件

  宝暦8年(1758)5月24日、27代藩主・相良頼央(よりひで)は、江戸で徳川幕府より家督を正式許可され、7月28日将軍・徳川家宣に拝謁。

 頼央には男子がなく、跡継の年齢に適した者も相良家一族内にいなかったため、隣国の日向・秋月藩主・秋月種美の四男・長次郎(民部)を仮養子を迎えています(*1)
 宝暦9年(1759)、頼央は江戸から帰国。ところがこの年の8月13日逝去。享年23歳(*1)エエ!>(゚Д゚;)))))

 この出来事には不可解な事件と処理が見られます。

 事件は宝暦9年(1759)7月15日に起こります。この日の夜藩主・頼央は人吉城下・球磨川沿いの薩摩瀬にある相良藩別邸・薩摩瀬屋敷に滞在していました。ここの観瀾亭という御茶亭に入った時、球磨川・矢黒の藪から何者かが鉄砲で銃撃。頼央の腰に弾2発が当ります。
 公式には子供の竹鉄砲(爆竹)による悪戯で、藩主に大事なく命に別状無しとされた。

 ところが1ヶ月ほどした8月13日、て頼央は療養の末に死亡したと発表・・・・本当は暗殺されたのでは?って疑惑は出ますわね。

 そして中野喜三という者が「鉄砲で撃った者は永田作平と渋谷弥助である・・・」と訴え出て来ます。
 驚いたのは二人の両親。我が子を問い正しますが二人共「全く身に覚えがない・・・・」と言うだけ。しかし重大事件の犯人にされては放置できないので、詳しく調べて欲しいと申し出ています。そらそうでしょう。

 ところが藩は「今回の事件は子供による悪戯遊びである。厳重に吟味しても無益なもので他国への聞こえも良くないので、吟味に及ばず・・・・」
 として、永田・渋谷の両名は無罪放免。ガセネタで訴え出た事になった中野喜三についてはその後何の記録もない。

 (゚Д゚)<えー! 悪戯としても藩主を撃ったってはシャレにならんでしょうが〜! 
 ここでうやむやのしたのは、お家大事と隠蔽工作? 藩主暗殺さる! なんて幕府にしれたら「改易〜!」となりかねないですし、そうなっては大変!

 “藩主の死は対外的に病死でなければならない・・・・”それでの捏造なんでしょうかね。マスコミもインターネットもない時代だから出来る処理でしょう。

 この竹鉄砲事件、真相は記録が無く不明・・・・あくまで推測ですが、暗殺したのは門葉方(小衆議派)が臭いですな。途中から家老派を支持した前藩主への怨みから、強行手段にでたのではないでしょうか? 城下ではいろいろ噂も流れたそうです。

 養子だった秋月種美の四男・長次郎(民部)が、宝暦9年(1759)12月11日、28代藩主・相良晃長(あきなが)となります。
 しかし晃長は宝暦12年(1762)2月4日に逝去してしまいます。享年11歳 (゚Д゚;)

 幼い晃長に子供がいるわけもなく、家臣達は急遽、姻戚で公家:鷲尾大納言隆熙の子息を迎え、29代藩主・相良頼完(よりさだ)としますが、頼完は晃長より年上であった事、末期養子の届出が幕府に出していなかった為、

 「晃長は回復し、名を頼完と改名した・・・・」

と、ウソの報告を幕府に出ます。藩存続のため「晃長と頼完は同一人物」にした訳ですね。(*2)

 ここに相良家直系血統は断絶。32代・頼徳まで、跡継ぎは生まれず、姻戚からの養子が続きます。

24代藩主・長興〜の短期・養子藩主の詳細→ こちら


(*1)
8月11日説あり。

(*2)
晃長は藩主として加えないケースありますが、ここでは29代としています。


(*3)
晃長の兄は出羽米沢・上杉藩へ養子となり、のちに上杉鷹山として知られる。

(*4)
晃長は藩主として加えず準藩主とす事もありますが、ここでは28代としています。
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