球磨と相良氏の歴史・近世11
茸山(なばやま)騒動

 宝暦9年(1759)竹鉄砲事件で暗殺された27代藩主相良頼央(公式には病死)。次いだのは他藩からの養子で28代藩主・相良晃長。しかし宝暦12年(1762)に急死。その後明和6年(1769)の31代藩主・相良長寛まで跡継ぎがないまま養子が続きます。>>詳細は近世番外2

 このころの相良藩の藩財政は破綻同然でした。特に30代藩主・相良福将の頃は洪水や旱魃が相次ぎ、2万2千石の石高収入が1万4千石まで減少。31代藩主・相良長寛の治世では天明2年(1782)の天明大飢饉に見舞われています。

 寛政5年(1793)、相良頼徳は父・相良長寛の隠居により家督を継いで、32代藩主へ。

 待ったなしの逼迫した藩財政の中、家老に登用された田代政典は、大がかりな再建を始めますが、これが大騒動に発展します。


藩財政改革のひずみが・・・

 文化4年(1807)、飢饉で崩壊していた農村の五人組制度を再建。文化8年(1810)には再検地による年貢増収を開始。さらに藩士の禄の切り下げにも着手。藩主3男・「相良直頼(左仲)」の知行も切り下げるほどでした。

 文政元年(1818)10月6日相良頼徳は、嫡男・相良頼之に家督を譲って隠居。

 33代藩主・相良頼之の代でも田代政典の藩政改革は続きます。文政11年(1828)「一石・四升宛」という増税と米焼酎製造を禁止。しかしそれも成功せず、米が底をつき餓死者が出るありさま。 禄を減らされた藩士の不満も高まります。

 その中でも田畑開墾をすすめ、椎茸・桑・うるし・人参などの栽培を試み収益拡大をはかります。特に椎茸は豊後(現・大分県)から茸山師(なばやまし)を招き、養殖栽培に成功しました

 藩は茸山(椎茸栽培の山)の支配と販売権(座)を、人吉城下の商人:辰右衝門にまかせました。後に紙・麻・苧の買入れなどの利権も商人達に与えてています。その見返りに、藩は商人からリベートを得ています。
 これによって藩財政は立ち直ったかに見えました。ただしこの方式にはカラクリがあるんですな。

 商人達は、農民が生産した農産物を相場より低く「手形」で買い取り、現金に交換する時は2割引で取引。これでは農民は生産だけさせられ、利益から疎外してしまうことになります。

 さらに藩は椎茸収穫期に茸山へ立ち入りを厳しく禁じ、茸山師に取り締まりをさせました。椎茸を食料にさせない為です。農民は飢饉になると山で芋や葛・山菜などで餓えをしのいでましたから、本当に困ります。
 そのうえ椎茸栽培に山へ駆り出されるのは農民でしたから、そりゃぁ不満が高まります。

 文政7年(1824年)。33代藩主・相良頼之は隠居し、長男・相良長福に家督を譲ります。
 34代藩主の元でも田代政典の藩政改革は続きました。

 天保10年(1839)相良藩で大飢饉が起こります。改革の割を食っていた農民の不満は飢饉や天災の度に積み重なっていました。
茸(なば)と茸山師
茸(ナバ)とは、きのこを総称したもので、特に大分では椎茸のことをさします。

椎茸の養殖栽培は、今から約300年前の寛永年間に大分(豊後)で成功。はがて茸山師は全国に招かれ。栽培を広めていきました。

大分では、椎茸生産技術者茸山師(なばやまし)または茸師(なばし)と呼んで尊称していました。

御入部万事御省略
文政2年(1819)6月。新しい藩主・相良頼之が初めて人吉城に入りました。

藩財政が逼迫している相良藩では、初入部のさまざまな儀式も大幅に簡素化し、「御入部万事御省略」の方針を打ち出しています。

通常なら藩内の庄屋や商人たちが藩庁にお祝品を持参するのが慣例でしたが、虚礼廃止の方針を堅く守って断っています。

藩の御用商人を勤めた石本平兵衛も献上品を持参しようとしたが、「大万覚帳」によると、差し止めを命じられている。

厳しい財政改革と質素倹約は、階級に関係なくおこなわれていました。
 特に田代政典が「アラヌカを煎じた汁を飲めば、2・3日ぐらいの命を保てる・・・と書物に書いてある」と云った事が「百姓はアラヌカでも食え!」と罵倒したという話に変化し、村々へ噂となって怒りを買います。

 さらに藩は全ての死んだ牛馬から皮を剥いで、皮革を売る事を押し進めます。これまで死んだ家畜は土に埋葬したか、被差別民に引き渡しなど裁量は自由でした。これに一部の農民が爆発。日頃痛めつけられていた茸山師の小屋などを焼き払います。

死んだ家畜まで藩に指図される事が許せなかったのでしょう



藩最大の農民一揆

一揆のエピソード
おおらかな打ち壊し
打ち崩しの対象になった酒屋が、農民達を酒でもてなしたので、その礼として外の方を形ばかり崩し家屋はそのままして立ち去ったという、笑い話のような事も記録にあります。

参加しないと・・・
湯前町では一揆に参加しなかった約20軒の農家に対し、火をつける制裁するなど、徹底していました。

体制側は容赦なし
相良藩では「盗賊方」という目明かしを各地に派遣して治安維持・取締りしていました。
その中には、横暴な者が多く、追い剥ぎや強盗をまでする輩もいました。一揆の集団は素行の悪い目明かしを捕え、妻子の目前で殺しています。

 藩は茸山小屋を焼いた農民達を捕らえ30日間拘留します。この処罰がきっかけっとなって、天保12年(1841)年2月9日、藩内各村の農民たちは蜂起。藩最大の一揆・茸山騒動の始まりです。

 一揆の集団は、紙、麻苧などの利権を独占する商人の屋敷を襲います。更に酒屋、醤油屋、米屋、反物屋等も襲い、昼夜問わず続けられました。
 これらは単なる暴徒ではなく、村ごとに猟師の鉄砲隊を先頭に押し立てて、斧・槍・釜・鍬・山刀などの隊が続く統率が取れてたものでした。(*1)

 打ちこわしは、主に商人に向けられましたが、一揆に助勢すれば、危害は加えませんでした。

 一揆は家老・田代政典の命を求めて人吉城下へ押し寄せます。その数は総勢1万〜3万人。 石高2万石あまりの相良藩では、藩兵をどう集めても2千足らずがやっと。とても抗しきれない数です。

 藩は大混乱に陥ります。このとき藩主叔父・相良直頼(左仲)が一揆との仲介に入ります。

 直頼は田代の責任を追及。一方で一揆へ「武家屋敷街には入るな。町家は勝手次第に打ちこわせ・・・・」。藩士には、「農民に味方し。刀・脇差等に手をかけてはならぬ・・・・」と申し渡しています。実態は農民側に着いたもので、藩士も鎮圧には動きません。

 四面楚歌の家老・田代政典は2月11日。永国寺に身を隠しましたが、一揆が迫ったので、一旦は寺を逃げ出しましたが諦め、永国寺裏の十君畑(じゅうこくんばた)で切腹。享年70歳

 一揆集団は相良直頼(左仲)から「田代政典切腹」を知らされ引き揚げます。2月13日、藩は商人へ与えた利権(座)を廃止し、手形の2割引も実取引にすると譲歩。一揆は農民側の勝利に終わりました。

 相良直頼や藩士達は、田代政典に知行を減らされるなど恨みがあったと云われ、この期に乗じて、田代を追い落しを計ったと思われます。
永国寺
田代政典が逃げ込んだ永国寺

(*1)
薩摩藩横目(密偵)の一揆の報告で、組織だった行動が記録にのこっている。

 翌年の天保13年(1842)2月21日。藩は相良直頼(左仲)に切腹を命じました。享年33歳。
この処分理由は記録もなくハッキリしていません

 推測されている説は、
 ・田代政典を信頼していた藩主長福の恨みかから一揆扇動の責を負わせた説。
 ・相良藩内には長年門葉派と家老派の対立があり、家老派の報復説


 一揆の処罰で、農民を咎めた記録はありません。

 農民達は直頼(左仲)に感謝して供養し、見慣れぬ星が天に現れると「左仲星」といって拝んだといわれています。

 田代政典の改革は、他藩でも行われている方式でもあり、決して悪政とは言い切れない面もありました。重臣も私腹を肥やしたりする事はなかった様です。

 しかし相良藩も他藩と同じく、莫大な資金を商人から借り入れし、返済がうまくいかない状況。これをは商人への特権を与え凌ごうとしたのですが、それが肥大化して農民の大きな怒りを買ってしまった訳です。

 相良藩の藩政改革はこの後も解決はできず、明治維新・廃藩置県に至ります。

 江戸後期は相良藩に限らず、全国各地では農民・町民による一揆・打ち壊しが頻発。封建・幕藩体制(武士による支配)は行き詰まりをみせながら、時代は進みます。

 茸山騒動からペリー浦賀来航(1959)まで18年。そして幕末へ。相良藩もその流れに否応なく巻き込まれています。
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