相良氏は肥後だけでなく、薩摩・大隅・日向への進出も画策してきました。
相良頼房(義陽)が幼い頃の弘治2年(1556)。相良氏は薩摩・大口を勢力下に入れるため、薩摩の国人領主・菱刈氏と共に動き出しました。
菱刈重任は娘を大口を支配する西原氏へ嫁がせ、相良家臣・栗田対馬を側近に付けて西原氏の動きを探らせます。そして西原氏当主が病の時のを見計らい、菱刈の軍が城に放火して攻め入りを滅ぼし、大口を勢力下にいれます。
時代は永禄年間、上村氏を滅ぼした後へ進み・・・
相良頼房(義陽)は永禄5年(1562)伊東氏に領地を奪われ、球磨に逃れていたひ北原兼親を復帰させるため、相良氏は薩摩・島津氏や北郷氏と同盟します。
北原氏は元々日向・真幸院一帯(霧島北山麓一帯)を領する戦国大名。相良氏とは身内でありましたが、人吉城を包囲するなど因縁ある仲です。それでも援助するのは、日向・大隅進出に利用しようとしたのでしょうね。
相良の軍勢は日向・真幸院に入って伊東軍を破り、日向・馬関田城を攻略。北原氏の元の本拠・飯野城も攻略します。島津氏・北郷氏も北原氏旧領:大隅・横川城、日向・三ツ山城を落とし復帰させました。(*1)
永禄7年(1564)相良頼房(義陽)は、室町幕府将軍・足利義輝から従五位・修理大夫の官位と将軍の名から「義」の一字が与えられて「相良義陽」と名乗ります。これは足利将軍家への献金による成果です。権威の箔を付け?(*2)
この頃が相良氏にとって最も勢力が強かった時期です。しかしそれもすぐ陰りが・・・・
薩摩・大隅をほぼ勢力下に入れた島津氏は、相良氏・菱刈氏の治める薩摩北部:大口をめぐり対立。
永禄11年(1568)、相良側は初栗合戦で島津氏を破りますが、翌年の砥上合戦で敗退。大永6年(1526)以来の薩摩における領地をすべて失いました。(/_;)
元亀3年(1572)、島津氏は日向・木崎原(きざきばる)の戦い(加久藤合戦:現在の宮崎県えびの市)で伊東の軍約3000を約300という寡兵を持って破ります。(*3)
この戦いの後、伊東氏は衰退の道を歩み始めます。
天正3年(1575年)、前関白:近衛前久が、九州へ下向してきます。
これは毛利と対決していた織田信長が近衛前久を使者に立て、九州諸氏へ和睦を薦めて毛利攻めの協力を依頼するたのです。しかし島津は承知せず成功しませんでした。
相良頼房(義陽)は摂関家の来訪に感動し、近衛前久に臣下の礼を尽くします。前久も義陽の純粋さに感動。再度島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせています。
しかし停戦は長くは続かず、天正5年(1577)島津の伊東攻めが再開。伊東氏は家臣の離反にもあって日向を追われ豊後・大友氏を頼ります。(*4)
豊後の大友宗鱗(義鎮)は、勢力を北進させる島津を討つべく総勢約4万の大軍で日向を南下。
天正6年(1578)11月、大友軍は [高城・耳川の合戦]で、戦術に長けた島津の前に大敗。(*5) 島津の勢力は一気に日向へ拡大します。
九州有数の勢力を誇っていた大友氏ですが、家臣の統率がよくとれておらず、島津に大敗後は内部反乱が相次ぎ力を弱めます。かわって肥前の龍造寺氏が拡大し肥後北部に介入。やがて島津も肥後を伺い、肥後の諸氏は大勢力の狭間でもまれる事になります。
(*1)
翌年、北原兼親の叔父が伊東氏と内通していることが発覚。北原氏は相良・菱刈氏などに圧迫され崩壊。永禄7年(1564)島津氏が真幸院を占領。北原氏は島津家臣として薩摩・伊集院神殿村のうち三十町を与えられ存続している。
(*2)
相良良房が義陽を正式に名乗るようになったのは、最晩年のこととされています。他の九州大名から抗議があり、憚ったともいわれています。義陽はこの後も将軍家・朝廷への献金に熱心で、織田信長が足利義昭を擁立し、二条城修築の費用を諸大名に求めた際、朝廷へ貢租7年分に当たる費用を将軍家に献じています。
(*3)
相良氏は伊東側についたが、島津の陽動に乗ってて動けず参戦できないまま終わっています。
(*4)
伊東氏はこの後大友~豊臣秀吉を頼り、後の九州出兵での戦功で日向・飫肥に領地を得て再興します。
(*5)
相良氏は九州山地を南下する大友・搦手軍を人吉で待ったが、到着が遅れ戦いに間に合わなかった。
伊東氏・大友氏が島津氏に敗れ、相良氏と島津氏とのパワーバランスも崩れます。
肥後国境で島津の侵攻が始まり、水俣・佐敷へ攻撃をかけてきます、そして天正9年(1581)8月、水俣城を約5万の軍で包囲。
相良氏は犬童頼安を守将に籠城を続けますが、相良氏に島津の軍を撃退するだけの力はなく、また大畑・皆越など他の国境から島津が侵攻する動きも・・・・。義陽は宇土・名和氏を仲で島津氏と和睦を決意。
島津氏は和睦の条件として、相良氏の所領:芦北・八代・益城の割譲。頼房(義陽)の子供を人質に差し出す。ことを要求。
さらに肥後・阿蘇氏攻略の先鋒も依頼します。
「阿蘇氏には配下の将:[甲斐宗運](*1)が御船城(現在の御船町)にいるので、容易に進軍が出来ない、そこで貴殿(相良義陽)をわずらわして先鋒となっていただくことを承知していただきたい。我々は大軍をもって後詰めをする・・・・」と出陣を促します。
戦国末期:肥・薩・日の動き
これまで相良氏は八代・益城進出のため、阿蘇氏など肥後北部諸氏と代々好みを交わしてきました。特に義陽と甲斐宗運とは誓詞をかわした盟友。義に厚い義陽は板ばさみになり、おおいに悩みます。
島津氏は人質に差し出した義陽の子供を返してきます。これは相良氏出陣を促す心理作戦なんですね。こうまでされて出陣を断れば相良氏に明日はない-!
「・・・・島津に逆らうことは和を破り、球磨の平安は消えてしまう。しかし出陣すれば肥後諸氏と積み重ねた先祖の義を反故にしてしまい、面目がない・・・・こうなったのも自らの不徳!」
こうして義陽は盟友・の甲斐宗運との対決を決めます。
当時八代(古麓城)にいた義陽は、願書をしたためて白木社(八代の白木妙見社と思われる)に奉納。社務権少輔・尾方惟勝(*2)を呼んで、
「・・・・このたびの出陣は決死の覚悟だから、祝詞もその旨の内容で敬白せよ!」と、命じた。
惟勝は事があまりに重大であるため、受けたが速答は避け延ばした。当主が決死の戦へ行くのですから驚きます。そらぁ~ちょちょまう!
そうこうして日数が過ぎていくうち、島津氏から、
「・・・・出陣が遅れると甲斐宗運が逆に出陣して機先を征される!」と催促がきます。
もはや日延べはこれまでと、義陽は出陣を急遽12月1日と決定します。
11月29日、義陽は尾方惟勝を再び呼び出し、
「12月1日に出陣と決まったから、明日参拝する・・・・」と予告し白木社に参拝し、惟勝に「祝詞敬白したか?」と問いかけた。
惟勝は仕方なく敬白したと返答したものの、不審がられてしまい、是非もなく神前で祝詞を読み上げた。当主の死の覚悟を読み上げるのは何とも言い難いものだったでしょう。
(*1)
甲斐宗運(親直)(1515~1584):肥後・御船国人。甲斐氏は菊池氏家臣であったが菊池氏没落後、阿蘇氏配下となる。大友氏の影響が弱まると、島津氏方の名和氏らと戦い阿蘇氏を守り、武将として名を馳せていた。
(*2)
管理人の遠-い先祖のひとりらしい・・・・(;´∀`)
天正9年(1581)島津氏は肥後攻めに動き、国境付近の水俣城を大軍で包囲。対する相良方守将は犬童頼安。守備兵は僅か700余で決籠城に臨んだ。
城方の応戦に攻めあぐねた島津方は包囲戦に戦術を変更。相良側に余裕を見せつけるため陣中で連歌の宴を開く。その中で島津の将・新納忠元が、
“秋風に水俣落つる木ノ葉哉”と連歌を賦して矢文を城内へ放ったところ、
“寄せては沈む月の浦波”と犬童頼安が脇句を射返したという話が残されている。
この後相良氏は島津と和睦し水俣城は開城。頼安以下城兵は140余名の戦死者を出しながらも約5万とも云われる大軍の前に屈しなかった。
頼安の子熊徳丸(後の犬童頼兄=相良清兵衛)はまだ14歳ながら、父の苦戦を知って単身水俣城に駆けつけ戦っている。
天正9年(1581)12月1日・寅の刻(午前4時)、義陽の本隊は八代を出陣。甲斐宗運の御船城をめざします。
この出陣は急な決定なため、義陽の本隊には八代の兵約800しか間に合わなかった。それでも北上し、明け方には娑婆神峠(現在の宇城市:旧豊野町と小川町の境界)に布陣。
東左京進率いる先鋒隊は昨夜のうちに八代を発し、明け方には堅志田城(甲佐町)を夜討ちして攻め落とし、守将・西村金吾を討ち取っています。さらに赤峯尾城(中央町)、豊内城(甲佐町)も攻め落とし、170あまりの甲斐軍将兵を討ち取った。
相良軍は先鋒・本隊・後詰の兵もあわせて総勢1000余名に。
進軍してきた義陽本隊は、本陣を娑婆神峠まで進め、さらに峠を下って鬼沙川を渡り、山崎村響野原(現在の宇城市豊野)へ布陣しようとします。それを家臣の高塚上野介と箕田三浦介(八代:興善寺城・城代)は 、
「鬼沙川を渡った響野原は四方を山で囲まれた地形で守りにくく危険。このまま娑婆神峠に布陣していればよろしいのでは……?」と諫めたが 義陽は、
「娑婆神峠は高台、峠の先は小川で不用心」(*1)
として聞かず、鬼沙川を渡って薄雪積もる響野原に布陣します。
少しでも前進しておきたかったのでしょうか。それとも・・・・!? こうして12月1日は暮れていきます。
(*1)
高台は敵を監視するには有利だし、小川は敵の足を止めるは都合いいし・・・ちょっと意味不明。
12/1早朝・相良軍の展開
相良義陽が島津側で出陣する噂は、御船城の甲斐宗運にも伝わっていましたが、備えはしていても表立っては取り合わなかった。
“義に厚い義陽がそんなことは・・・・”しかし堅志田城から相良軍来襲の報告を聞き。
「・・・・このような事態となっては是非もない。相良と戦うことになるが、これで両家(甲斐氏と主家・阿蘇氏)は滅亡と決まった。相良が島津を押さえてたきた為、我らは無事であったが、誓詞を破って攻めてくるという事とは、もはや手だてがない・・・・」
神仏に誓った相良義陽との誓紙を阿蘇の神池に沈めるよう山伏に命じています。宗運も決死の覚悟です。
12月2日早朝。
甲斐宗運は御船・千光寺で吉事の神示を受け軍を4隊構成とする。先鋒と中備を田代快尊・宗伝親子にまかせて先発させ、宗運は本隊を率い御船城を出陣。堅志田など相良軍のいる方面へ向かった。残った一隊は御船城に残し、他方面(島津方の名和氏・相良軍の伏兵)からの攻撃に備えます。
宗運が御船から一里(約4㎞)ほど南へ進んだとき、自軍の斥候から、
「相良軍はおよそ1000、多くは歩兵。本陣約500は中尾山下の響野原に布陣―!!」
と聞き、宗運は、
「その軍は家臣の東か箕田、高橋が率いる前衛隊であろう、義陽の本隊が鬼沙川を渡る事はあるまい・・・・」として、再度調べさせた。
相良の家臣が義陽を諫めたように、娑婆神峠を下り響野原の布陣は、不利な地形と知られていたんでしょう。
宗運も情報が信じられなかった。やがて次の斥候が“義陽の旗印と紋を確認・・・・”との報告が。
そこで先鋒と中備へ響野原へ向かうように伝令を発し、本隊もいくつかに分け、その一隊を宗運自ら率いて早朝の霧の中、井戸田口から甲佐を通り宝蓮寺山の裾をぬけ、糸石山(現在の豊野町・糸石付近か?)の麓を沿って星窪の森に本陣を置きます。
本隊の各分隊は本陣の北、戸の内・馬立・後藤切枕などの竹藪や林・集落に隠れて本陣を守りながら、相良軍への攻撃準備を整えた。
12/2早朝・甲斐宗運本隊の展開
一方、先鋒・田代快尊・中備・田代宗伝の隊は急ぎ響野原へ向かいます。先鋒が遅参ではカッコ悪いですからね。
その動きを察知した相良軍先鋒・東左京進隊は急ぎ隊の一部を率いて迎撃。田代快尊・宗伝の隊は進路を遮断され、中尾山方面へ後退します。この戦いを響野原の朝合戦ともいいます。
東左京進の隊は、田代快尊・宗伝の隊のその後の動きが濃霧のためつかめず、響野原の本陣には合流せず、警戒していました。
甲斐宗運・本隊は響野原の相良本陣を徐々に取り囲むように兵を展開。兵は旗や槍を倒して伏せながら、茂みに潜んで包囲を狭めていきます。
快尊・宗伝の隊は朝合戦では撃退されたものの、その存在が東左進隊を相良本陣との合流・連携をさまたげ、宗運の本隊の行動をとりやすくする事に。
12/2・響野原の朝合戦
12月2日の響野原一帯は、早朝から濃霧で視界が遮られ、相良軍は斥候の偵察でも甲斐軍の動きを知ることがでませんでした。(*1)
そんなとんでもなく危険な中で相良本陣では、先鋒・東左京進隊の勝報と届けられた首級を検し、酒樽を開き兵に振る舞って祝います。
敵の位置把握を出来ない中での祝宴。これはあまりに不用心すぎます。なぜ義陽は許したのか・・・・
甲斐軍・田代快尊・宗伝の隊は、霧にまぎれて中尾山から戸の内へ移動。響野原の相良本陣に最も近づき、気を見計らって鉄砲を射撃! 太鼓やドラをならして突撃! この合図を契機に伏せていた甲斐軍本隊は旗を押し立てて相良の本陣に攻め込みます―――。
12/2・響野原の合戦直前
不意を突かれた相良本隊は混乱するものの、高塚上野介と箕田三浦介らは先陣を切って戦います。しかし!!
箕田三浦介は奮戦したものの重傷を負って倒れ、淵上刑部は薙刀をふるって奮戦するも敵に囲まれ戦死。
光明寺と玉井院の僧は槍を持って戦い討死。槍卒の籐八も自ら相良籐八郎と名乗り(敵の注意を引く為)奮戦の末討死。園田教音(修験者)は数十名に囲まれながらも敵をなぎ倒し奮戦したが力尽き、さらに東刑部・高橋内膳・桑原紀伊・柏木壱岐も戦死した。
多くの戦死者が出る中で、建て直しをはかる相良軍は、高塚上野介・東越後・高橋志摩・豊永備前ら20数名が一丸となって甲斐敵陣に攻め入り、続いて緒方藤左衛門・犬童喜兵衛・犬童五兵衛・原口佐左衛門・桑原喜兵衛らも攻め込み。甲斐軍もその勢いに後退。
しかし後続の攻撃が続かず、敵の盛り返しにあってさらに戦死者を出してしまいます。
成願寺・江林寺・海上庵の僧兵らは義陽に対し、「娑婆神峠へに陣を移しましょう!」と進言しますが、義陽は踏みとどまります。
ここで甲斐宗運は、本隊を自ら率いて義陽の陣の横を衝き、義陽に迫ります。
混乱する義陽の陣では、小田・浜田・小谷らと犬童長門以下十五名の近衆も奮戦の末討死。11歳の井辺干宮も義陽の盾となって倒れる。控馬卒の源四郎・修羅助は逃走。儒学者の本間朔己は「・・・・黄泉の国への先導を仕らん!」と義陽の目前で自決した。周囲の護衛が戦死・逃亡する中でも義陽は座して動かなかった。
甲斐軍・野本太郎右衛門は刀をかまえて義陽に迫ったが、相良義陽は刀を抜くこともなく座したまま身を差し出し、38歳の生涯を閉じます。
野本太郎右衛門は義陽を斬った事を悔いて首級はとらず(*2)、証として太刀を得て去った。しかし緒方喜蔵が首級を取って立ち去ったという・・・・このようにして勝敗は決し、甲斐宗運の本隊と田代快尊・宗伝隊は糸石山方面へ退きます。
緒方喜蔵は首級を宗運に献上しましたが、宗運は喜ばず感極まって涙し、
「義陽公は戦死された、我が家(甲斐家・阿蘇家)の滅亡も3年を出ないだろう・・・・」といって首級を響野原の相良軍へ送り届けさせます。
勝ったとはいえ甲斐宗運も、義陽の苦しい心情をわかりながら盟友を討たざる得ず、主家にも暗雲がたなびく事を予見・・・・。辛い勝利です。
主戦場の雌雄は決着したものの、残された家臣たちの戦いは済んでいなかった。
東左京進・先鋒隊は、響野原から救援の知らせを受け、駆けつけたがすでに遅く、東左京進はその力及ばなかった事を嘆き悲しんだ。そして一同を励まし、糸石山・星窪の甲斐宗運の陣へ決死の突撃をかけます。当主に殉じて生きては帰らぬ覚悟です。
迎え撃つ甲斐軍も東左京進の勢いに押され、宗運も自らも馬上で槍を振り応戦。はげしい戦いは続き、東左京進を始め多くの相良士卒が討死にしたといいます。
相良領最北端、豊福城(松橋町)を守っていた東駄左衛門と弟東市左衛門の隊も、報をを聞いて急ぎ響野原に駆けつけたが、すでに時は遅かった。
東駄左衛門は弟に向かって「・・・・おまえは公(義陽)の首級と亡骸を持ち帰れ。自分は宗運と一人戦う!」と言って帰らせようとします。
市左衛門は共に戦おうとして応じず、その場で言い争いになります。しかし兄の決意は揺るがず従い、駄左衛門はひとり甲斐軍にむかい宗運と一騎打ちの名乗りを上げます。
宗運は駄左衛門と戦うことを固く断り、相良軍への追撃はせず、御船へと去ってしまいます。
駄左衛門はむなしく弟と共に義陽の首と亡骸を輿で八代へ持ち帰り、八代・鰾谷へ葬りました。
これが九州の戦国戦記に伝えられる響野原の合戦です。この戦いで相良軍の戦死者は300~400余名にのぼったといいます。(*1)
結局、島津軍は直接の後詰(援護)はしませんでした。相良氏と阿蘇氏(甲斐氏)が共謀していたのでは?との噂もあり警戒したとも、また相良の力を弱めさせ、後の支配しやすい形に持っていきたかったとも言われています。
冷酷とはいえ、島津も薩摩・大隅・日向の統一に多大な時間と犠牲を払ってきた経緯があり、自軍の犠牲を出さず勝つことが最善であるからです。
島津の大勢力の前に相良義陽は、相良氏当主という公の立場から、従属で領地安泰という道を選び、義陽という私の立場で先祖に不義を詫びるため死地をもとめ、守るに難しい響野原に陣を張ったのでは・・・・? と思われるフシがあちこちで見られます。
でも無念だったろなぁ。肥後の南半分を勢力にして、これからという時に志半ばでの死・・・・。こうして肥後の戦国大名・相良氏の拡大は終わります。(*2)
のちに響野原を訪れた東駄左衛門は、義陽と戦死者の供養塔を建てた。上村地頭・犬童頼安も義陽の墓に参って一首献じ、東左京進の墓前でも一首献じた・・・・(*3)
(*1)
相良軍の戦死者約400名。甲斐宗運が御船から響野原へ直接投入できた兵は、推定300~500名程度と思われますから、甲斐軍の奇襲はかなりの不意打ちとなったのでしょう。
(*2)
この戦いの2年後、宗運は75歳で没した。毒殺であったともいわれている。生前「鉾をおさめて、外城を捨てて民心を得て三年余りを防げば天下定まるであろう・・・・」として、兵を用いて打って出る事を厳しく戒めた。島津氏は阿蘇氏攻略への軍を整え、響野原合戦の4年後、天正13年(1585)、響野原近くに花山城を築き、絹脇刑部左衛門に兵300余名をつけて守りを固めます。対する宗運の子>宗立(親秀)は戒めを破り、奇策をもって花山城を攻め落とし、城兵をことごとく討ち取ってっています。これによって島津に真っ向から敵対する事になり、宗運が主家・阿蘇氏のために作った阿蘇二十四城は悉く島津の大軍に破られ主家・阿蘇氏は没落。甲斐氏は島津氏に服属する事に。天正15年豊臣秀吉の九州出兵本領を安堵された。その後肥後の領主となった佐々成政配下となるが、肥後一揆の際、一揆側に立って敗れ甲斐氏は滅亡した。
(*3)
現在・響野原のある宇城市豊野には「相良堂」という供養堂があります。犬童頼安はこの後、八代・玉井院で剃髪して天道休矣と号し、永昌寺(多良木町)で喪に服しています。
※響野原は文献により響ヶ原と記述するものもあります。
※響野原の合戦図は、管理人の推測も入っていますので、文献と異なる点があるやも知れません。