響野原の戦いのあと島津氏は和睦条件の通り八代・芦北を占領。当主を失った相良氏は本拠を人吉へ戻します。
家臣の間には風説が飛び交い騒然となったといわれています。それもそのはず、戦死した当主:義陽の子は、亀千代10歳、長寿丸8歳、藤千代4歳。幼い後継者を巡って混乱が起これば、島津がどう出てくるか・・・!?
相良氏の家臣は[深水頼方(宗芳)](*1)と[犬童頼安](*2)らのもとに団結。長男:亀千代を次の当主とし、残り二子のうち一子を島津氏へ人質とする事に。
どちらが人質にとなるかは人吉城下の井ノ口八幡神社で占い、次男:長寿丸と決まります。亀千代は四郎太郎と称し島津氏へ願い出ます。島津氏当主・義久は烏帽子親として亀千代に衣冠を与え、島津氏先祖の緯名の一字を送ります。
ここに19代当主[相良忠房]が生まれます。
島津は忠房(亀千代)の家督相続を認めました。それは相良氏と対等の関係ではなく配下としての扱い。以後幼い忠房は深水頼方と犬童頼安らの補佐のもと、龍造寺・大友攻めの島津軍に従軍し転戦。
ところが当主となって僅か4年後の天正13年(1585)、従軍中に忠房が急死~!
またも深水・犬童らが家臣をまとめ、忠房の叔父・相良義貞を退け(*3)。人質に出されていた忠房の弟・長寿丸(11歳)を急ぎ擁立。20代当主[相良頼房(のちの長毎)]とし、島津氏に相続を認めさせます。
あれだけもめた相良氏家臣も、このときばかりはまとまります。自分たちの危機が外部からせまれば団結をせざるを得ない。状況を読みとる事を身につけていたのでしょうかね。そして深水頼方と犬童頼安ら重臣たちの統率も見事だったのでしょう。
(*1)
深水頼方(宗芳)(1532?~1590) 相良氏家老・三河守。弘治3年(1557)上村氏攻め。永禄2年(1559)獺野原の戦いの頃相良氏三奉行・東長兄、丸目頼美、深水頼方として名を連ねている。
義陽戦死後は犬童頼安と相良氏を支える。幼い当主:忠房・頼房(長毎)の家督相続においては相良家諸派・島津氏の介入をさせる前に人質をさしだし、島津義久に相続を承認させた。豊臣秀吉の九州出兵の際も島津氏不利をいち早く察知。天正15年(1587)4月19日、八代へ豊臣軍が南下した際、肥後・八代:泰平寺で長誠と共に秀吉に拝謁。相良氏の領地安堵の保証を得るなど尽力した。
また豊臣軍の島津侵攻先導も務め、この働きを秀吉から賞され水俣の豊臣直轄領代官も命じられている。さらに直臣を命じられるほど気に入られたがこれは固辞。
和歌も嗜むことから、泰平寺で秀吉に謁見した際、「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗琉球ならん」と述べて和歌を所望。これに「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られ、豊臣政権との折衝にあたる。
天正18年(1590)8月21日死去。人吉・中尾山に葬られる。「墓は必ず南面せしめよ。死して南敵を防がん」と遺言したとのちの記録:「球磨郡誌言」では記述がある。死去から170年ほど経った宝暦13年(1763)、当時の家老:菊池武延・井口展頼・菱刈隆良・東尚庶によって南向きに墓碑が建てられた。相良氏存続に生涯半を費やした一生であった。
(*2)
犬童頼安(天道休矣)(1521~1606) 上村地頭・奉行・美作守。15代・長定謀反に加担した犬童重安の子。後の相良藩国家老・相良清兵衛(犬童頼兄)の父。長定が16代・長唯(義滋)によって追われたあと、犬童氏はことごとく誅殺された。このとき頼安(当時・熊徳丸)は11歳の幼少で、西竜寺(あさぎり町・旧上村永里)住職・玉井院がいち早く出家させ命は助けられた。成人後は還俗し犬童軍七と名乗り、八代・岡の地頭・相良治頼に仕えた。
治頼は長唯(義滋)に謀反を計ったが発覚して共に豊後へ逃亡。軍七(頼安)は治頼の死後出家し、僧・伝心と名乗って諸国を流浪。後に許され球磨に戻り18代・義陽(頼房)に仕え、犬童頼安と名乗り獺野原の合戦等で武功を挙げ、上村(あさぎり町)の地頭となった。文武に優れた豪傑で、天正9年(1581)島津氏に水俣城包囲された際にも守将として、和睦するまで屈しなかった(近世2参照)。
相良義陽が響野原で戦死した後再び出家・剃髪し「天道休矣」と号する。
相良氏が島津氏に降った後も、幼い当主:忠房や頼房(長毎)を深水頼方(宗芳)と支え、島津の九州制覇の出兵には出陣し若い主君を助けた。部下に信望も厚く、慶長11年(1606)11月7日85歳で亡くなった際、東丹波以下7人の殉死者を出すほどであったという。
(*3)
相良頼貞(1544~?):17代当主・相良晴広次男。19代・相良頼房(義陽)と同じ日に生まれた異母弟。弘治2年(1566)人吉の永国寺に入り「奝雲(てううん)祖栄」と称するがやがて勝手に還俗。島津氏の水俣城攻め前後に義陽と対立。八代・谷山に幽閉さられたが逃げ出し日向・飯野(栗野説あり)に逃れたという。頼房(義陽)が響野原で戦死した後、再び入国し人吉城を攻めたといわれているが、深水頼方の計略に嵌るなどで果たせず逃亡。その後の消息は不明。子孫は島津領に暮らしたと言われている。
天正12年(1584)、島津氏は龍造寺氏の軍を肥前・島原の沖田畷の戦いで破り、当主隆信を討ち取ります。そして大友侵攻へ。大友氏は領内深く攻め込まれ苦戦。
ここで大友義鎮(宗隣)は自ら大阪へ出向き、豊臣秀吉に援軍を懇願。九州出兵の確約を取り付けます。
天正14年(1586)、秀吉は先遣隊として中国・四国の諸大名を差し向けます。(*1) しかし豊後・戸次(べっき)川の戦いで大敗。
島津軍は勢いに乗って総勢5万余の軍勢で侵攻。大友宗鱗の豊後・臼杵城に取り囲みます。さらに筑前の大友重臣:高橋紹運が守る岩屋城も包囲。しかし予想以上に手こずり、時間と兵を消耗。その間に豊臣秀吉は諸大名に九州出兵を命じます。
豊臣軍・約20万は九州に攻め込み、肥後路を秀吉本隊、日向路を羽柴秀長(秀吉の弟)の別働隊に分けて南下。圧倒的軍勢で島津軍とその配下を撃破・恭順させます。島津軍は急速に戦意が衰え、薩摩・大隅へ引き上げた後降伏。
しかし和戦両様の巧みな戦術を展開して、秀吉に薩摩・大隅など旧領支配をみとめさせます。
相良頼房は島津に従い日向へ出陣していましたが、秀吉が八代まで来た天正15年(1587)4月19日、深水頼方は三男・長誠を連れて秀吉に拝謁。領地安堵の保証を得ています。後に頼房も秀吉も拝謁。
頑迷に島津氏に従属しなかったのは賢明でした。下手に島津に従属して豊臣軍に攻め滅ぼされたり、減封・転封された諸氏もいた訳ですから・・・・。
この様にして相良氏は、豊臣政権下で肥後・球磨の大名として近世大名の道を歩みはじめます。
(*1)
豊臣政権は一方で徳川(背後に北条・伊達等)と対峙していたので、まだ本格的出兵できない状況でした。
秀吉・九州平定後の九州