相良氏の歴史・近世4 豊臣政権と相良氏

豊臣政権と相良氏

忠臣の子らの対立

豊臣秀吉の九州出兵の際、幼い20代当主[相良頼房(のちに長毎と改名)]の代の相良氏は、[深水頼方(宗芳)]と[犬童頼安(天道休矣)]の采配で、所領を安堵されました。

その後肥後は秀吉配下:佐々成政が転封して来たものの、一揆を防げず、責をと問われて改易。 かわって肥後北部に[加藤清正]、宇土・益城・八代に[小西行長]が入国。相良氏は両氏と懇意にした事は推測できます

豊臣政権は天下統一を成し遂げたものの、内部に問題を抱えていました。肥後の加藤清正と小西行長はともに秀吉直属の家臣ですが、清正が武将型に対し、行長は官僚型。天下統一の過程では武将型家臣は戦功をあげ要衝に所領を与えられます。しかし統一が近づき安定すると官僚型家臣が重用されるようになり、二派の暗黙の対峙が始まります。(*1)

相良長毎(頼房)
相良長毎(頼房) 肖像
資料提供 人吉城資料館

この状況で大名は、いかにして秀吉家臣と昵懇となって味方につけるか? そしてどちらの派につくかでもその後の運命が大きく左右されていきます。
相良氏は加藤・小西という両派の大名と接していてたので、均等な外交戦術が取れたのかも知れません。この中で相良頼房は成長と共に内政の充実に力を注ぎますが、再び波乱がやってきます。

頼房を支えた深水頼方と犬童頼安は、頼房の成長と共に後輩へ役を譲りはじめます。
執政の役にいた深水頼方は、犬童頼安の子[犬童頼兄(のちの相良清兵衛)]の才能を高く買って役を譲ろうとしますが、身内・深水一門の強い反対をうけ、[竹下監物]が推薦する頼方の甥[深水頼蔵]も推挙することに。
頼方は門閥をより才能ある犬童頼兄を評価したのでしょう。しかしこの両者は一門ぐるみで対立を始め・・・・。その中で深水頼方は天正18年(1590)に没します。心残りだったでしょうね。

文禄元年(1592)朝鮮出兵・文禄の役では、相良氏にも出兵命令がでます。
当主・頼房は犬童頼兄を輔佐(副将)。深水頼蔵を軍師(参謀)とし、約800の兵を率いて加藤清正配下として朝鮮へ渡っています。(*2)

出陣前、頼房は頼兄と頼蔵の二人に相良性を与えます。
「ふたりは殿様の身内同然だから、喧嘩はしちゃならんばい!」っ、て願ったんでしょうね。
ところが頼房らが従軍中に深水頼蔵に組みする竹下監物が、犬童氏に対して反旗を翻して湯前城に立て籠もる騒動を起こします。鬼の居ぬ間に・・・・でしょうか?

頼房は犬童頼兄を帰国させ、隠居していた父・頼安とともに反乱鎮圧に当たります。
文禄5年(1596)出兵は終わり、相良軍が帰国途中の深水頼蔵は突如出奔し加藤清正の元へ。これでお家騒動は外へ知れ渡ることになる。

なんということをするんだぁ~!○| ̄|_


豊臣政権での肥後


対立の構図

慶長元年(1596)、再び朝鮮への出兵(慶長の役)が起こり、頼房は領地を犬童頼兄にまかせて軍を率い渡海します。
その間に深水頼蔵は[石田三成]に「犬童頼兄は相良家を乗っ取ろうとしている・・・・!」と公訴。

豊臣政権は犬童頼兄を京へ召還し二人を尋問します。今までの内乱は領内ですべて解決出来たのですが、加藤清正を頼る深水頼蔵。犬童頼兄は官僚派の石田三成に助けを求め代理戦争へ・・・・。

小大名が天下の情勢にいっちょカンだ話に発展てかぁ~!?
実際はというと・・・・・・
訴えた深水頼蔵は犬童頼兄への反論で勝てず、頼兄に頼蔵追討を出します。
ヤブヘビになった頼蔵は朝鮮出陣中の加藤清正をたよって逃がれ、朝鮮で戦死・・・・。

こうして両者の争いは一方の当事者死亡で幕を引き、犬童頼兄は[相良清兵衛頼兄]とも呼ばれ、執政・家老として相良家をまとめ上げていきます。

(*1)
最近の研究では、豊臣政権での武将派と官僚派の対立は秀吉の死後からとの説もあります

(*2)
朝鮮出兵で相良氏は約200余名の戦病死者を出したといわ、戦功に秀吉からの勧状が出されている。

相良清兵衛大博打!!

慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去、嫡子・秀頼は幼少。権力は五大老筆頭の徳川家康に流れ始めます。それに対抗したのが五奉行で秀吉の家臣・石田三成。しかし三成は支持されず失脚。
家康は反抗する上杉景勝討伐に諸大名を会津へ動員し京を留守に。その隙に三成は西国大名に激をとばし軍を興す。

天下は東西二派に割れ、相良氏は石田三成側の西軍から誘われます。三成と相良清兵衛は過去の経緯もありますので・・・・。慶長5年(1600)7月兵約1570、相良氏最大規模の軍勢です!!

相良軍が上洛しての初戦は、徳川の留守部隊が立籠もる伏見城攻め。城方は激しく防戦したものの、宇喜多秀家ら西軍の総攻撃で落城。
ところがその裏で相良氏は東軍の徳川家康に「西軍に従っているが本意ではない・・・・」と手紙を送ってます。この辺は抜け目ない。ここまで約350年、巧みに生き残った相良氏ですから。

相良軍はこの後、日向・県の秋月氏、日向・延岡の高橋氏らと近江・勢田城警備を経て、9月5日美濃・大垣城に入城します。

西軍に対し東軍の転進は速く、西軍の居る大垣城約4㎞南の赤坂に布陣。京や大阪城侵攻の動きを流布しはじめます。西軍は阻むため、夜を徹してあらかじめ防衛陣地を作っていた関ヶ原へ移動。

関ケ原の戦い屏風図 Wikipediaより転載
関ケ原の戦い屏風図 Wikipediaより転載

徳川家康は自分たちが上杉攻めで京を空ける間に、三成が決起する事を想定して、反三成派豊臣大名を中心に従軍させ、西国大名にも内応を勧める工作をしていたようです。東軍(家康側)にとって西軍の動きはかなり想定内・・・・

相良軍は大垣城(守将・福原長高:石田三成の身内)に秋月氏・高橋氏と共に残ります。城の兵力は約4800。
9月15日朝、関ヶ原の戦いは幕を開けます。戦いは一進一退か西軍優勢でしたが、午後になると西軍・小早川氏を始めとする諸氏が東軍へ寝返り夕方前には西軍は壊滅。日和見を決めていた西軍諸大名も敗走します。

9月16日、大垣城攻略に徳川家臣・井伊直政が26000の軍を率いて進軍開始。その夕方、井伊の元に相良・高橋・秋月の降伏状が密かにもたらされます。それに対して家康・井伊直政の条件は「福原長高、垣見家純、熊谷直陳、木村宗左衛門ら石田三成家臣の首を、陣に届けるよう・・・」

相良頼房は共に城に籠もる秋月種長・高橋元種(*1)と協議。そこに相良清兵衛が策を持ち出してきます。

清兵衛は「城外にある竹林は敵を防ぐのに邪魔なので、切って城壁を築きたい・・・」と抗戦策を進言。視察に三成四家臣のうち三人を竹林へ誘い出し、部下たちに襲わせて首をはね、残った福原長高に降伏を迫り同意させます。相良氏ら三氏はこうして生き残るんですな。まぁなんとも強引な策だこと・・・・。

その後清兵衛は、当主・頼房と徳川家康の講和会見の準備に大垣攻めの敵将・井伊直政に自ら交渉しています。講和に直に向かい合った敵将を訪ねるのは大胆きわまりない。
このとき清兵衛は当主より先に家康との面会を求めます。(^_^;A・・・・これはさすがに頼房から推薦状を持参していないという理由で井伊直政に断られています。大垣城開城の手柄を主張したかったんでしょうか?

その後頼房が家康と会見する際、清兵衛も同席をゆるされます。

このようにして相良氏は西軍に属してながら初めから東軍に内通していたという巧みさから、所領を減らすこともなく外様大名・相良藩として江戸時代へ入っていくのです。

(*1)
秋月種長、高橋元種は実の兄弟。両氏とも相良氏の隣国・日向の大名。朝鮮の役で相良頼房と親交を深め、頼房は二人の妹:龍子を妻に迎えている。秋月氏は幕末まで存続し上杉鷹山は秋月氏の出身。高橋氏は慶長18年(1613)に改易。