球磨と相良氏の歴史・近世7
江戸初期の騒動

村上左近(顕武)一家の乱

 正保2年(1644)、21代当主・頼寛の頃。村上左近顕武一族約70人が斬殺される事件がおこりました。これが原因がよくわからない、謎の事件なんですな。

 村上一族は室町・戦国時代、宇土・益城・八代に勢力を張った名和氏の子孫といわれています。名和氏没落後、村上行良は球磨・相良氏に身を寄せ、相良(犬童)清兵衛頼兄の取りなしで知行地(250石)を与えられ、永国寺馬場に居を構えました。その後、行良の甥(兄の子)・顕武も球磨に入り、300石の知行地を与えられ、人吉城下麓町に居を構えます。

 顕武には跡継ぎがなく、相良氏家臣・万江兵大夫の三男・鶴三郎(角兵衛)を養子としました。ところが正保元年(1643)春ごろから顕武と妻の夫婦仲が悪くなり、妻は角兵衛の実母を恨む言動が目立つようになりました。
 これを聞いた角兵衛は実兄・柳瀬長左衛門(万江兵大夫次男)に相談を持ちかけ、村上一族を残らず討ち果たそうと計画します。そして養父・顕武にもうち明けます。それを聞いた顕武は二人を押し止めようと説得したものの受け入れられず、仕方なく顕武も受け入れました。(*1)
 正保2年3月27日、村上家では先祖供養に一族と祐玉寺の僧を招いて法要をおこなっている最中、長左衛門・角兵衛が一族約70人を襲って惨殺。2人とも自刃しました。

 事件の原因は村上一族がキリシタン信徒だったことからの弾圧説などもありますが、詳細は不明。


(*1)養母憎さに殺すならいざ知らず、一族皆、それでターゲットにした顕武に打ち明けるというのも
  (それを義父も受け入れてどうする!)・・・・実に変な話だが記録ではそうなんですな。




騒動外伝 又五郎屋敷址・・・・伊賀越鍵屋ノ辻の決闘

 寛永7年(1630)7月21日の夜、備前・池田藩家臣・河合又五郎(19)は、河合家に伝わる銘刀村正の事で渡辺源太夫(17)を口論の末殺害。逃亡する事件が起こりました(*1)
 事件の吟味の為、家老・荒木志摩と近習頭・加藤主膳が又五郎の父・河合半左衛門に行方を訪ねますが、知らぬ存ぜで押し通します。実は又五郎を密かに江戸へ逃がしていたのでした。

 又五郎が江戸で逃げ込んだ先は、上野・安藤藩藩主・安藤右京進重長の又従兄弟(弟説もあり)で旗本・安藤治衛門正珍の屋敷でした(*2)
  池田藩では又五郎の行方を突き止めますが、外様大名にとって幕府直参・旗本はとてもやりずらい。そこで同じ旗本・久世三四郎、安部四郎五郎を仲介役に立て、安藤家に又五郎の引渡しを申し入れますが、応じてはくれませんでした。
 河合親子に絡んだ家同士の遺恨、大名VS旗本の確執。仲介役の久世や阿部も安藤家側に回って話が余計に複雑になり、池田家は幕府に直訴。双方とも武装を強化しで険悪な空気になっていきます。


(*1)池田藩主・池田忠雄の寵童だった源太夫に、河合又五郎が横恋慕し関係を迫ったものの拒否。逆
  上した又五郎はこれを殺害したとの説もあり。
(*2)河合又五郎の父・半左衛門は、安藤藩の家臣であったが、些細な事で同僚を殺めて逃亡。池田藩
  主・池田忠雄の行列に泣き付いて救われていた。池田忠雄は安藤藩からの引き渡し要求を拒絶。
  助けを求めている者を引き渡すのは武家の名折れ?)。親子そろって凶状持ちですな。しかし親が
  問題を起こした藩の身内に逃げ込むとは・・・・


 こうなっては幕府も放っておく訳にいかず、まず又五郎の父・半左衛門を備中松山・池田藩に預ける事を決めます。
 その2年後、河合半左衛門は幕府の命で、徳島藩前藩主・蜂須賀蓬庵に引き渡されますが、徳島に護送される途中、何故か刺殺されます。陰謀臭いなぁ〜。

 さらに幕府は仲介しながら安藤家に荷担した久世・安部の三人に対して、百日間の寛永寺へ寺入りを命じ、河合又五郎を江戸御構い(追放)と処します。又五郎は阿部家の世話で三河・片瀬に行きますが、さらに縁故を頼って逃げ回ります。

 幕府は、池田藩・池田家を因幡・鳥取へ国替え(転封)を命じます・・・・。“争い事は喧嘩両成敗”が基本姿勢の幕府でしたが、国替えはチト外様大名には厳しすぎるなぁ。
 藩まで巻き込む事になった末、弟の仇を打てなかった渡辺源太夫の兄・渡辺数馬は、舅・津田豊後と藩を退き、仇・河合又五郎を探して旅立ちます。

 寛永10年(1633)、渡辺数馬は大和郡山・松平藩剣術指南で義兄(姉婿)荒木又右衛門を訪ね、助太刀を請います(*1)。又右衛門は願い受け入れ、指南役を辞して門弟・河合武右衛門・岩本孫右衛門と共に行動することに・・・・。

 寛永11年(1634)。河合又五郎は叔父・河合甚左衛門(元大和郡山・松平藩剣術指南)。又五郎の妹婿・桜井半兵衛(槍の名人)など約10人(20人説もあり)が護衛についており、一行は奈良から江戸に移動しようとしていました。
 又右衛門達もその情報をつかみ、伊賀・上野に11月7日に入るとみて、上野城下の“鍵屋の辻”で待ち受ける事に・・・・。

 又右衛門は同じ藩士だった河合甚左衛門・桜井半兵衛の腕を熟知していました。いきなり又五郎へ打ってかかっても2人がいてはそう簡単にはいかない。そこで又右衛門は甚左衛門めがけて突き進んで注意を逸らし、門弟の二人は桜井半兵衛と槍持ちの従者に打ちかかって押さえ、渡辺数馬が河合又五郎へ・・・・!との作戦を立てました。

 待ちかまえる又右衛門と数馬は、鎖帷子に黒頭巾,革の達付袴。又右衛門は伊賀守金道二尺八寸。宇田国家二尺二寸。数馬は備前佑定二尺五寸五分を差していたそうです。

 8日早朝、又五郎一行が鍵屋の辻を通りかかった頃、萬屋という茶屋から又右衛門と数馬らが現れ、仇討ちの口上を述べ手筈通り斬りかかりました。
 又右衛門は馬上の甚左衛門の足を切り、落馬した所を速攻で仕留めます。
 門弟2人も槍持を倒し、桜井半兵衛と勝負していいましたが、そこへ又右衛門が加勢して倒しました。門弟の河合武右衛門はこのとき斬られて死亡。
屋ノ辻道標
   面影をのこすのはこれだけ。
ただしこの道標は江戸後期のもの。
 残るは渡辺数馬VSS河合又五郎ですが、どちらも真剣での勝負経験がなく、ひたすら動き回ぐだけで、戦いはなんと6時間あまりにも及びます・・・・(^_^;) 

 助太刀の又右衛門は数馬を激励しますが、昼過ぎにやっと又五郎に傷を負わせるのが精一杯。2人とも疲れ果て、もはや動けない状態でヘトヘト。
 又右衛門は仇討ちの作法として又五郎にとどめはさせないので、数馬をかかえて手を添えて又五郎の胸に刀を突き刺し、ようやく仕留めました。(*2)

 河合又五郎一行は、死亡:河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛(翌日死亡説あり)、槍持4名。重傷:その他家来1人、軽傷:1人。
 又五郎一行は他にいたはずですが、戦いが始まるとすぐ逃げ出しており、有名な“荒木又右衛門の36人斬り”は無かったいうのが真相です。

 一方、荒木又右衛門・渡辺数馬一行は、死亡:河合武右衛門。重傷:渡辺数馬、岩本孫右衛門。軽傷:荒木又右衛門。

 事を知って駆けつけた伊賀上野・藤堂藩は検視をこない、作法の乗っ取り又五郎らを弔い、本懐を遂げた数馬・又右衛門を讃えています。

 藤堂御預けとなって4年後、鳥取・池田藩に復帰が許された数馬に又右衛門もついていきますが、到着後18日目に急死したとされています。毒殺説もあるのですが真相は不明。享年41歳。

 これが曾我兄弟・赤穂浪士 とならぶ日本三大仇討、伊賀越鍵屋ノ辻の決闘でした。後に「伊賀越鍵屋ノ辻の血闘」として歌舞伎や浄瑠璃・講談などで脚色され、劇的な物語となります。また武士道形成期の中で“武士の鏡”としても讃えられたことも、後世に語り継がれた要因かもしれません。

(*1)渡辺数馬は腕に自信がなかったので助太刀を頼んだといわれています。
(*2)藤堂家の記録文献「累生記事」によれば、数馬の傷は、「胸に疵二ヶ所、左之足一ヶ所、右大指」又
    五郎は 「手疵頭に七ヶ所、左之腕被切落、当座に相果、数馬討之」とされている。

登場人物の関係図を作ろうかと思ったのですが、ややこしいので、また気が向いたら作ります(^^;A

 
三代目豊国作伊賀越仇討錦絵
    鍵屋の辻公園には当時の資料を展示した伊賀越資料館。
    数馬と又右衛門達が又五郎一行を待った茶屋「萬屋」を再現
    した数馬茶屋もあって、仇討ちの日の朝、食べたという蕎
    麦と鰯を使った数馬茶屋祝膳が名物

                     鍵屋ノ辻の位置
数馬茶屋

 ところで、この事件と相良藩との関連なんですが、河合又五郎は、縁故を頼って肥後・相良藩へ保護をもとめていたと云われ、承諾した相良藩は人吉の鹿奈目(鹿目:かなめ)に屋敷を建て、待ったそうな。
 ところが又五郎は伊賀で討たれちゃいましたから、来ずじまい。でも争い事に巻き込まれずに済んで良かったかもね。

 ・・・・浄瑠璃で「落ち行く先は、九州相良・・・・」と又五郎の心情を謡った名文句が後世まで残ったので、それはそれで良かったのかも? 今は屋敷址には碑があるとか。

 ちなみに鹿目は、日本の滝100選に選ばれる見事な滝があります。そうそう、[河合又五郎餅]なんって人吉駅前の土産屋さんで見かけたことがありますが。今もあるのかな?
                  鹿目の滝の位置
鹿目の滝
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