相良氏の歴史・近世8 球磨川の開削

球磨川の開削

球磨川の水運

戦国の争乱が終わり太平の世へ、各諸藩は内政に力を注いでゆきます。山に囲まれた内陸の肥後:相良藩(人吉藩)が発展するには、外部への流通路整備が不可欠。

20代・相良長毎の時代から相良藩では、肥後:加藤藩から球磨川河口の八代に港を借り(舟屋)、木材・米・炭などを各地へ運び出していました。
ただし人吉から八代までは険しい山岳路と球磨川沿いの狭路が続き、拡大への障害となっていました。
人や牛馬しか理陸路運搬手段のない当時、船による水運は大量運輸には欠かせないものです。

現在の球磨川水系域概図
現在の球磨川水系域概図
荒瀬ダムは撤去されました

相良藩を貫く様に流れる球磨川は、源流から球磨盆地のうちは穏やかなものの、人吉から八代までは急流が続く厳しい川でした。その球磨川を私財を投げうって開削を指揮したのが[林正盛]という人物です。

林正盛は丹波・篠山生まれ。22代当主・頼喬(よりたか)の叔父で、それが縁で相良藩士なったと云われています。
開削は寛文2年(1662)に着工。無数に存在する巨岩を取り除く難工事の末、寛文4年に筏(いかだ)を通せるまで開削。
さらに水運用の川舟も開発し、寛文5年(1665)にはに川舟が航行可能な開削が完成しています。


現在はダムのためすべての舟下りは不可

この後球磨川の水運は、外部との交通・物流幹線として、また藩主の参勤交代でも多用されるなど、相良藩と人吉球磨地方の発展に多大な貢献を果たした事は言うまでもありません。

明治41年(1908)の肥薩線開通(当時は鹿児島本線)で、球磨川の水運は縮小し鉄道が流通の主役に代わっていきますが、木材の筏搬出は球磨川にダムができる昭和30代はじめまで続きます。


昭和初期、筏による木材搬出の様子

水運での利用は終わった球磨川ですが、現在は観光川下り舟が主役になっています。

くま川下りウェブサイト(外部リンク)

亀 割 の 石

寛文2年、林正盛は22代当主・頼喬の許しを得て、川下から順に上流に向って工事をすすめていった。その中の難工事のひとつが、伝説となって後世に伝わっています。
球磨川は人吉から下流は流れが激しく巨岩がひしめき、大変な難工事となった。特に大瀬付近の亀石と呼ばれる巨岩はどうしても割ることができず、石工たちもあきらめてしまほどだった。
正盛は日夜この岩の横で思案にくれていたが、名案も浮かず日が過ぎるばかり。

様々な工夫をこらしたが、万策つきて弱り果てていたところへ一匹の白狐が目の前に現れ、正盛は思わず呼びかけた。

「狐よ、この岩を割る方法はないのか・・・・」
狐はすぐ姿を消してしまったが、その夜正盛の夢枕に稲荷神が現われお告げがあった。
「岩の上に枯木を積み火をつけ、水をかけ割れた岩を取り除き、また火をつけ、それを幾度も繰りかえせば、7日の内には大岩も割りつくすであろう・・・・」
正盛は早速お告げに従って始めたころ、固い岩が容易に割れはじめ、3日とたたぬうちに亀石は全部取り除くことができたという。
この出来事のあと正盛は屋敷に稲荷の桐を建て、その恩に報いたこと伝えられている。