球磨と相良氏の歴史・中世1
相良氏の球磨入国

 球磨が歴史文献に登場し始めるのは平安後期ぐらいです。平安末期は平氏の支配地であったといわれています。特に登場が多くなってくるのは鎌倉初期。相良氏の球磨入国以降です。

 平氏滅亡後、鎌倉幕府は全国統治に守護・地頭制度を設置。平家の影響力の強かった西国は、東国の御家人(西遷御家人)を下向させ、支配強化をはかります。その中で肥後国球磨郡人吉荘へ下向したのが、遠江国相良荘(静岡県)の御家人[相良長頼]なんです。

相良氏の記録[御家伝記]。源氏と鎌倉幕府の事を記した[東鑑]になどよると長頼の父・[相良頼景]は、長頼が球磨に下向する前、建久4年(1193)肥後・球磨郡多良木荘に流配されたとされています(これには諸説あります*他項参照)。

建久8年(1197)頼景は罪を許され、鎌倉で源頼朝に謁見。頼朝の善光寺参詣随兵として参加し御家人の列に加えられています。その後多良木荘を所領として授けられ、支配できるようになっています。

父・頼景から家督を譲り受け遠江・相良荘にいた相良長頼は、建久9年(1198)、父の所領・多良木荘に近い球磨郡人吉荘の領地を賜り下向。元久2年(1205)。鎌倉幕府が畠山重忠を討ったときの二俣川の戦いでの戦功によって、人吉荘の地頭職に補任。(*1) 

伝・相良長頼 肖像
長頼は承久3年(1221)[承久の変](*2)弟の宗頼・頼忠と従軍。宇治川の戦いで先陣を務め、敵将・渡部弥次郎兵衛を討ち取るなど活躍。きっと“父の汚名をはらす・・・・”てところで必死だったんでしょうね。

長頼の活躍に対し北条泰時は、梅の実五個を青磁の碗に盛って酒宴を催し、その功を賞したそうで、これを記念し相良氏は梅を家紋にするようになったのだとか。

この戦功で幕府から故郷の遠江・相良荘を領地に復してもらい、長頼の弟;頼綱・長綱らが相良荘に残り遠江相良氏とよばれるようになります。
さらに肥後北部に領地を得て、長頼の弟・宗頼が山鹿郡泉荘内田村を領し後に内田氏。同じく弟:頼平が玉名郡山北郷を領して後に山北氏と称しています。

長頼は慣れ親しんだ父祖代々の地・相良荘へ戻らず、父・頼景のいる近くの球磨へ本拠地とし続けます。これを親を想う心“至孝”として“政道は孝にはじまる”と“相良家が長い間球磨を治めらた所以”として後世讃えられます。

実際は幕府の西国支配政策もあったので球磨から離れられなかったのでしょう。けど、当時の守護・地頭の中には補任地に住まない御家人(*3)も大勢いた訳ですから、長頼の場合は流配となって球磨へ来た父:頼景を想ってのことであったと思いたいんですけど。

どうでしょうか?それにしても跡取り息子は大変だ!!(^^;A

家伝の書っていうと、高貴なお方の御落胤・末裔とかあやしいのが多い中で、相良家の場合は、なんとなく人の心ってのを感じられます。

後に多良木付近を支配した頼景の相良家を[上相良氏](*4)。人吉付近を支配した長頼の相良家を[下相良氏](*5)と呼び、戦国時代まで球磨には2つの相良氏が存在しました。



相良頼景の球磨流配についてはこちら(中世・番外5)
相良長頼の武功についてはこちら(中世番外2)

(*1)
頼景の流配、長頼の球磨入国・地頭職拝命は、年号・内容は文献によって違いがあります。

(*2)
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討伐のつため兵を挙げた事件。幕府側の勝利に終わる。


(*3)
御家人が守護・地頭などに補任されても代官(守護代・地頭代)が支配をおこなうことがあった。

(*4)
または多良木氏、多良木相良氏と呼ぶ場合もある。

(*5)
または人吉相良氏と呼ぶ場合もある。
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