球磨と相良氏の歴史・中世2
相良氏の支配と元寇
一族を各地へ
 相良長頼が人吉にやってきた時。平家支配時代の代官だった[矢瀬主馬祐]が人吉城(*1)にいて実行支配しており、立ち退きに応じませんでした。
 長頼は球磨川を挟んだ村山に城を築き、人吉の西、木上の地頭[平河高義](*2)の協力を得てを討ち滅ぼし入城。支配体制を作り始めます。

 長頼の長男[頼親]は、人吉で[下相良氏]2代目を相続します。次男[頼氏]は、祖父・頼景の所領を相続し[上相良氏]として多良木の地頭を勤めます。

 [頼俊]はのちに下相良氏3代目。2代・頼親の子・頼明は、病弱であったため家督を継げず{永留氏]の祖となり、人吉北部・山田の地頭となります。

 [頼村][上村氏]の祖として上村の地頭。[頼貞]は稲富氏の祖として人吉の西部・西村の地頭に。
 娘達も一門・家臣・各地の地頭などに嫁ぎ[犬童(いんどう)氏][豊永氏]の祖・・・・。長頼の子たちは家臣の祖となっていきます(*3)




 この頃の両相良氏はあくまでも人吉と多良木の地頭に過ぎず、周辺には在来地頭の支配地や荘園があり、飛び抜けた力は持っていませんでした。相良氏の支配が球磨全体にゆきわたるのはまだまだ先。

 特に上相良氏・一門は「こちらが本家だぞ!」との自負もあったろうし、配下というより上下相良氏は対等な関係でいたとみるのが自然でしょう。

中世期の両相良氏の勢力概念図 正確な支配図ではありません
 これを象徴する出来事が仁治4年(1243)に起こります。長頼は一門で甥の相良頼重と領地争いを起こし、幕府から所領の人吉荘北部を執権・北条氏の領地として取り上げられたりしています。その後、豊後・上毛郡地頭にも任じられましたが・・・。

 このように下相良氏の支配体制は飛び抜けた力はなく、一門・家臣の力をある程度認めた上の支配システムを作っていきます。この“連合政権議長”の位置が、支配維持のバランス感覚を備え、約700年におよぶお家存続に役立ったのだと思われます。


(*1)
矢瀬主馬祐は、相良長頼と平河高義の策に誘われ、胸川(現在の人吉城の西側)まで来たとき討ち取られている。矢瀬主馬祐の討ち取られた地を矢瀬ヶ津留と呼び、矢瀬主従の墓があったが、昭和48年の胸川の防災工事で上流へ移転している。矢瀬主馬祐の母は、主馬祐が殺されたことを恨み、その後祟りが起こったといわれで、建長6年(1254)・3代当主・頼俊のころ人吉城内に於津賀社を建て祀った。のちに火災に遭い、現在は礎石だけが残っている。

(*2)
平安期から球磨に勢力を張る在地国人。木上・岩城を本拠とし、木上・須恵の地頭といわれている。相良長頼の人吉入に協力した。始め厚く優遇されたようだが、次第に長頼の力が大きくなると不仲となり、血敷原の戦いで敗れ木上城で敗死する。

(*3)
犬童氏の祖について他に頼員説など諸説があるようです。まぁ800年余りも昔のことですので、客観性を保つ記録が少ない事、家系図は後世に操作される例が多い事もあり、絶対的史実とは言い切れない面があります。「記録があるだけ儲けもん・・・・」ぐらいの曖昧な視点で見たほうがよいかと思います。

※長頼の子の詳細について、御子孫の方より指摘があり修正しました。(2005.05.15)・・・・<(_ _)>




元寇(文永・弘安の役)と相良氏
 文永11年(1274)、中国の元(モンゴル・ウルス朝の最大勢力)が、約4万の軍勢を載せた船団で日本へ侵攻してきます。(*1)

 元軍の中核は・当時支配されていた高麗(朝鮮)と江南(中国)の軍でしたが、対馬・壱岐・松浦などを攻めて博多湾に上陸。日本側は九州の少弐・大友・島津・菊池などの御家人が中心に対抗した訳です。

 球磨から上相良氏2代・頼氏。平河氏など他の地頭も防戦に加わった記録があります。

蒙古襲来絵詞(部分)
 集団歩兵戦や火薬(大砲の原形)を用いる元軍に対し、騎馬の一騎打を主体とする日本軍は苦戦。太宰府まで本陣を退いたものの、元軍は撤退。(^^;A
 でもこれ、一種の偵察と武威示威だったようです(*2)
 弘安4年(1281)、元軍は10万以上の大軍で攻め込んできます。今度は本格的侵攻です。

 再襲に備えていた鎌倉幕府は、西国の御家人(守護・地頭)を動員し、北九州沿岸に土塁を築いており水際で防戦に徹します。また水軍が小舟の機動力で元の大型軍船へ夜襲を仕掛けるなどして元軍を手こずらせ、上陸を阻みます。
 元軍は上陸出来ぬまま船団で長門〜九州沿岸を転戦しているうちに、暴雨風に遭って壊滅的打撃を受け撤退。

 これまで日本では「暴風雨によって助けられた・・・・」とされてきました。しかし文永の役は元側の戦略で戦いが終わり。弘安の役は日本側が文永の役での苦戦を教訓にして、戦い方を研究し実力で上陸させなかった。その上で暴風雨が追い打ち・・・・というのが最近の研究による考察です。

 ところが暴風雨の威力だけが大きく伝わり、それが“神風”と呼ばれて、のちに「神風=日本は神の加護があり強い」なんて根拠もない事を信じちゃいます・・・・。今でも”根拠もない事を信じて盲信・・・・”は日本人よくやりますね。戦争に負けてもこのへんは変わってまへん。(^_^;)

 この弘安の戦役には、下相良3代当主・頼俊が弟の頼員と共に出陣し、菊池氏の軍に従って戦いっている記録があります。

 ところで頼俊は元寇のころ推定で70〜80代ってことになります・・・!?、すごい高齢出陣(高齢出産よりすごいてか?(^^;A )です。でも武家の長たる者は、家臣に出陣を強いらせる以上、自ら華々しい活躍をして幕府から恩賞(領地など)をもらい、家臣・領民の暮らしを安定・豊かにさせる責任がありました。だから「年なので・・・・」なんて言ってられない状況があったのでしょうね。

 ・・・・これは“奉公と恩賞”(*3)っていう武士社会の根幹ですが、よくよくみると現在の“権利と義務”に似てますね。

 元寇は外国軍の侵攻による防衛戦。鎌倉幕府のシステムでは、恩賞を与えようにもぶんどった土地がない・・・・戦った御家人の不満は高まり、また幕府・執権(北条氏)への権力集中への不満も重なって、これを契機に鎌倉幕府は次第に衰えていきます。


(*1)
元は日本へ親交の国書を送ったのだが、鎌倉幕府や朝廷は元の国力や侵攻の状況が理解できてはいなかった。元の国書が対等な関係ではなかったので拒絶。元の皇帝フビライは威圧の軍を動かした。

(*2)
元の歴史書「元史」などによると、文永の役の元軍の撤退は、日本軍の抵抗も想像以上にあった事、得意の集団騎馬戦が馬を運ぶ船の不足で思うに行えず、弓矢も尽きたという記録もある。その後撤退中に玄界灘で暴風雨にあったともいわれている。

(*3)
中世の武士社会は、主君への奉公によって所領支配を認められ、主君は家臣の活躍に応じて恩賞を与えるシステムで成り立っていた。また鎌倉時代は土地・財産は夫婦協同による所有とがみとめけられ、長男相続にもこだわらず、女性の地頭も存在した。→後に女子への財産分与は領地の矮小化を呼ぶとして制限された。