球磨と相良氏の歴史・中世4
拡張と内訌

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相良氏は戦国大名へ・・・・
 下相良氏の滅亡からしばらくたった応仁2年(1468)室町幕府の内紛から[応仁の乱]が起こり、京のを中心に東西両軍が11年間もの間争い続けました(*1)

 相良氏も細川勝元の東軍に加わり、11代当主[長続]は遙々上洛して戦っています。

 この乱をきっかけに室町幕府の権威は衰え、日本は群雄割拠の戦国時代へと移っていきます。

 戦国初期の球磨の周囲には強力な勢力が無く、相良氏は周辺諸氏を支配下におき、領地の土拡張していきます。


戦国期・相良氏の拡大概図

 相良氏の内実は戦国大名としては未整備。中世地頭の域を抜け出しておらず、当主への権力集中による家臣統率、領国の経済発展などはまだ先の話。もし相良氏の近くに好戦的な大勢力があったら、あっという間に滅ぼされたか、配下に組み込まれていたかもしれません。ホント幸運ですな(^_-)。(*2)

 長続が当主の頃には佐敷氏を従えて芦北地域をほぼ領有。次の12代・[為続]も、文明8年(1476)大隅・牛屎(ねばり)院(現在の鹿児島県大口市)を戦って領有。

 肥後北部の守護大名・[菊地氏]の一族争いに介入しつつ、八代方面へ領土拡張を進め、文明16年(1484)には八代の名和氏(*3)と戦い、古麓城を攻め落として肥沃な八代平野へ支配を伸ばしています。(*4)

 13代・[長毎(ながつね)]の代にも、領土拡大を画策してゆきます。芦北から海をへだてた天草諸島に勢力をのばし、天草諸氏を影響下に入れます。

 文亀元年(1501)一族争いで弱体化していた菊池氏が身内の宇土氏に攻められ、当主・能運が肥前・高来に逃がれて有馬氏を頼っていました。
 ここで肥後北部への進出を狙う長毎は、菊池氏らと同盟し、文亀3年(1503)に宇土氏を滅ぼし、翌年に肥後へもどった菊池能運が、宇土氏に組みしていた名和氏攻撃を肥後諸氏に肥後守護職として命じ、八代から追い出します。そして名和氏が相良氏から奪い返していた八代を、相良氏に与えました。
 八代を追われた名和氏ですが、菊池能運の急死のどさくさに宇土を本拠にして存続。後に島津氏と結んで相良氏らと戦い、巧みに生き残ります。

 こうして長続・為続・長毎から後の義陽の時代まで。相良氏がもっとも外へ勢力を広げた時期といえます。でも・・・・

 戦国というのは領土の奪い合いばかりではありません。身内との戦いでもあります。このあと、相良氏は拡大しながら内なる争いに明け暮れてくのでもあります。これがくどいぐらいながいんだなぁ。〜(=w=)


(*1)
足利幕府八代将軍・義政の後継者を巡っての争いが発端。嫡子ないかった義政は弟の義視を後継に決めていたが、正室の日野富子に男子が生まれ、これに幕府家臣(守護大名)同士の争いがからまり拡大。義政と義視を推す細川勝元(東軍)と、日野富子とその子を推す山名宗然(西軍)とが対立して、互いに各地の守護大名を味方に引き入れて両軍勢は膨れあがり、11年余り京の都とその周辺で争った。やがて戦いは雌雄を決しないまま、細川勝元・山名宗然の死去で“都での争い”は自然鎮火した。しかし地方では都へ出陣して不在の守護大名・地頭などにかわって、その家臣や国人が支配地を横領するなどして、争いが全国へ拡大する(下克上)。

(*2)
拡大しやすい状況があったとともに、周囲から攻め込まれにく自然環境があった事も小勢力の相良氏が拡大できた要因といえる。

(*3)
鎌倉幕府倒幕で功績をあげた伯耆国・名和氏の一派。後醍醐天皇より八代・芦北の地頭職を拝命する。長年八代・益城・宇土を巡って相良氏を争い続ける。後に天正一揆の後、他国へ転封。

(*4)後に菊池氏などに敗れて八代を失っていまます。




長定のクーデター
 11代・長続の長男・[頼金]は生まれつき病弱な為(*1)家督は継げず、次男の為続が12代なり、長毎・長祇と続きます。

 頼金には[長定]という子がおり、成長するに従い、家臣から優遇され、次第に“自分は正統な相良の継承だ!”と思うようになります。
 やがて身内で奉行の犬童(いんどう)長広などと謀り、14代・[長祇(ながまさ)]を討つ策を巡らし始め・・・・。

 これが長祇の知るところとなり、大永4年(1524)8月24日。長祇は家臣の村山治部左衛門らに相談。
「・・・・本当かも知れませんが、風説かも知れませんので。事の実否を問い正すべきかと・・・・」と慎重に言上、長祇も決めかねます。
 そこへ家臣[園田又四郎](*2)が座に現れ、「たとえ今回長定に逆心なくとも、先々の仇となるのは長定。事が切迫する前に彼の館に行って刺し殺して殿のお憤りをお静めしたい・・・・」と言って刀を下げて出ていこうとした。

 “火種は早めに消せ!”って論法でしょうが、座にいた家臣達は又四郎を諫めます。長祇は招かぬ座での園田の勝手な振る舞いに怒ってり、「まだ事の真否も分からぬうちに。あまりに強引で無礼なる振る舞いである!」として死罪も辞さない態度。

 その場は他の家臣たちが庇って詫びを入れたので死罪は免れ、芦北郡二見へ追放処分が言い渡されます。

 ・・・・長祇は、異母兄・長唯へ相談後。長定へ久保田右馬允を使者を遣って詰問したところ、“逆心なし”と誓文をだして誓ったので、「なんだぁ噂だけだったんだぁ・・・・」って、安心しました。

  ところがその深夜、長定と組みする犬童長広らは60人余の者を人吉城へ密かに送り込みます。

 突然の襲撃に城は混乱し、長祇は薩摩・出水までへ落ちのびます。(*3) ・・・・あれ? 上相良氏が攻め込んだときにもあったような話だなぁ? 歴史は繰り返すぅ?

 長定の反乱は成功したものの、逃げた長祇の存在は今後の不安になるので策を巡らします。
  翌年「謀反は逆臣にそそのかされての短慮でした。私は城を退去し逆臣を討ちますので、どうかお許し願いたい。もし叶わぬなら、水俣を隠居料にさし上げますので・・・・」といった詫び状で誘いをかけます。

 これに長祇は迂闊に乗って芦北・水俣まで戻って来ます。自分を殺そうとした相手の話を簡単に信用しちゃうなんて、お人好しだったんでしょうか?

 長定は配下で芦北・津奈木の地頭[犬童匡政]に対し、長祇殺害の命をだしていました。
とことが、この話はすぐ風評として領内に広まっていたんですな。陰謀としてはなんともお寒い情報管理。でも長定はあっさり水俣城へ入っちゃったんですよ!! 

 ここで「殿お待ちくだされ!」とテケテンテン!と水俣へ駆けつけたのが園田又四郎でござるぅ〜! 
 又四郎と対面した長祇は事の真相を知り、自分のうかつさを悔いて園田と逃亡を試みますが、犬童匡政に追い詰められ共に自刃し果てます。(*4)

 忠臣は愚君によって報われず。奸臣は愚君を幸な事に甘い汁を吸う・・・・。名君・忠臣はなかなか巡り会わないのが世の常なんでしょうかね。


(*1)先天性の障害があったとも云われています。

(*2)下相良氏2代頼俊の子、頼照が祖

(*3)正室の実家が菱刈氏だったのでしょうか?。

(*4)
この日、大永5年(1525)1月8日。長祇は享年25歳、長祇の首は犬童匡政が長定の元に届け、梅花筒口の法寿寺に葬った。後、長定庶兄で16代・義滋(長唯)が、天文3年(1531) に青井阿蘇神社東脇に長祇霊社である竜王社を建立、天文13年(1541)八代・高雲寺を長定の牌所と定めた。




長唯(義滋)・瑞堅(長隆)VS長定・・・・あれぇ〜?
 こうして長定は念願の当主となります。これを犬童氏がバックアップ。

 死んだ長祇には二人の庶兄[長唯(ながただ)(のちの義滋][瑞堅(僧侶)]がいて、すぐ長定不信任のキャンペーンを展開します。
 他の家臣たちも同調して人吉城へ出仕をやめ、城外で長唯を16代当主に擁立します。

 特に瑞堅は大いに怒って長定に切腹を迫ります。大永6年(1526)5月11日、急に配下の僧・門徒の軍勢300余人を集めて人吉城大手門から討ち入ります。しかし長定は妻子・犬童長広らと共に落ちのびます。

 あれぇ? また取り逃がしてますね。相良氏って大きな大名じゃないので、一万も二万も軍勢を集めるなんて夢のまた夢。急には300、500がいいとこなんですね。だから攻めても攻めきれないのかな?

 兄・長唯を支持していた瑞堅は、ここで気が変わって、自分が当主になると言いだし、翌12日還俗。[長隆]を名乗り人吉城に居座ります。おいおい!(^^:

 瑞堅改め長隆は、僧としての修行がたりんかったのか、思慮分別に欠けていたようで、家臣は誰も登城しません。皆長唯支持です。
 さらに長隆は自分の寺である観音寺の古刹を焼き払うなど支離滅裂な行動に出でる始末。

 これには配下の僧徒も困って説得。居座って3日目、5月14日夜、当主になれないまま永里・金蔵寺(現在のあさぎり町・旧上村)へ退きます。


球磨盆地内にあったおもな城
 長隆(瑞堅)は、長唯を怖れて落合加賀守(永里氏?)のいる永里城に逃げ込みました。

 長唯支持の家臣達も、長隆(瑞堅)は不穏な存在なので「討ち取るべし!」として意見がまとまり、長唯は近隣の相良氏一門[上村頼興](*1)に先陣を依頼します。

 頼まれた頼興にとって長唯・長隆は共に従兄弟なので、すぐに味方につくのは承諾しかねます。長唯は何としても味方に付けようとして、

「味方についてくれたら、頼興の嫡子・藤五郎(頼重)を私の養子として跡継ぎにする!」

 とまで約束して味方に引き込みます。

 5月16日、長唯は頼興ら諸臣の軍と共に兵を率いて永里城を攻めます。長隆(瑞堅)は防ぎ切れず金蔵寺で自刃。瑞堅(長隆)THE・END。
 いらぬ気おこさなければ“異母弟の仇を追い出し、兄を助けた忠義者”になれたのに。権力の誘惑って怖いですね〜ぇ。
]
 どちらにしても権力争いは、庶民には迷惑なだけの話ですけどねぇ〜(-_-;)

 ところで長隆によって追われた長定のその後ですが、八代の家臣ところに身を寄せたものの、結局受け入れてもらえず追放。大永7年(1527)8月、津奈木の犬童匡政らの元へ身を寄せます。情報を得た長唯は津奈木を攻め、長定は妻子と船で筑後へ逃げます(*2)。しぶといゾ長定!

 ところが享禄4年(1531)11月11日、長唯の再三の帰国の勧めで、なんと帰ってきます。おい!自分が長祇を殺した時の手口やでこれは!

 長唯は長祇と同じように長定を人吉筒口・法寿寺門外で殺害。妻子も筑後や球磨で殺害しています。
 嗚呼、ミイラ取りがミイラに、人を呪えば穴二つ、巡る因果は糸車・・・・。(=_=)


(*1)下相良氏初代長頼の子・頼村が祖

(*2))筑後に相良氏系の身内がいたのでは?と思われます。




上村氏の力を背景に権力を強化

 天文2年(1533)長唯(義滋)は八代に本拠を移しています。八代・芦北を領地にしていたため、内陸の人吉では、不都合があったのでしょう。翌年には八代・鷹ヶ峯に城を築き領地・勢力拡大をすすめます。(*1)

 長唯は上村頼興の補佐のもと、領内家臣団をまとめ、戦国大名としての基盤を固めます。

 天文14年(1545)幕府12代将軍・足利義晴から諱字を賜り[義滋(よししげ)]を名乗っています。

 上村頼興は身内の政敵を一掃。相良氏宗家と上村氏の権力集中と拡大・拡充を計りますが、天文15年(1546)義滋が急逝。
 次の17代・[頼重(後に晴広と改名)]は、実父・上村頼興の権力はさらに強くなっていきます。

 天文20年(1550)には、豊後の戦国大名・大友義鑑に追われた菊池義武(大友重治)が球磨に落ち延び保護します。
 大友義鎮(宗鱗)が大友氏の家督を継ぐと、菊池義武は隈本城に戻ります。しかし甥の義鎮と対立。敗れた義武は晴広を頼りって再び肥後へ逃れた。
 晴広は一旦義武を保護しますが、義武は義鎮の要請に従い豊後に帰ります。しかし途上で殺害されます。

 この義滋・晴弘の治世は、相良長続〜為続〜長毎の治世と並ぶ相良氏の発展・拡大期といえ、九州の有力戦国大名として成長。
 勢力は次の義陽に受け継がれ、一門・家臣など強力な内部勢力を押さえながら戦国末期へ歩みだします。でも波乱は続く・・・。

相良義滋


相良晴広

画像提供
人吉城歴史館



(*1)特に海外交易をすすめます。詳細は下記コラム参照

(*2)
[八代郡誌]には「・・・・鞍掛・丸山・飯盛・鷲尾・新城・鷹ヶ峯・勝尾寺は古麓城(八代)の一部で、古麓の五城と称する・・・・」という記録がある。ちなみにこの五城のうち相良氏の築いたのは新城・鷹ヶ峯で他は名和氏が築城したものと思われる。

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