上村氏は相良氏初期からの一門で、(下相良氏)初代:長頼の四男・頼村がその祖とされています。戦国時代には勢力を拡大。麓城(上村城)を拠点として球磨中部を支配し相良氏当主を輩出。その力は相良宗家をしのぐ勢いがありました。
上村氏は文献によると、初代から上村を拝領支配した事が記述されています。しかし相良氏(下相良氏)が球磨へ入国した鎌倉初期、既に在来の武士団が割拠していた事は別項でも触れました。上村氏の支配した地域もその支配地になっていたと見られています。
その様な中で、上村氏は一帯の支配をどうやっておこなったでしょうか?
上村氏の麓城の位置
文献でみられる上村氏の本拠:上村(現あさぎり町旧上村)の支配状況ですが「相良家文書・相良定頼一族等所領注文」等によると、南北朝時代(室町前期)の頃、上村:三池兵庫助妻女領分、永里:永里彦次郎(永里氏?)領分、下村(旧上村北部一帯):三池兵庫助妻女領分とあります。そこに上村氏が支配したと明確に分かる記載がありません。
「嗣誠独集覧」よると「・・・・応永三二年(1425)、上村七代相良千葉介頼国、医王院東円寺並ニ本尊薬師堂草創。開山弘尊上人也・・・」(*1)と7代:上村頼国の名が記されています。
ところが「球磨郡神社記」の同時代期の東円寺の記載には「応永三三年丙ヨリ経始、生長年中ニ至リ、開山弘尊上人本尊薬師如来・・・」とあるだけで上村頼国の名は記載されていません。
かつての火災で焼失する前の谷水薬師堂・棟札には「大檀那相良六郎三郎貴頼」と記されてあったそうです。この貴頼は10代:上村高頼か?・・・
上村氏に関する他の文献では、「南藤蔓綿録」「求磨外史」、10代:高頼の子・長国が編纂した“洞然状”などがありますが、10代:高頼以前の当主について具体的な記述文献が少ない様です。上村氏初期の詳細はよく分かっていません。
また麓城跡の東、谷水薬師前にある上村氏累代墓地には明応8年(1499)以前と断定できるものがないとの調査もあります。
この点などから、頼村から始まる上村氏が実際に上村一帯を支配できたのは、南北朝後期頃の10代:高頼か11代:直頼ぐらいが実態かも知れません。ちょうど相良氏(人吉の下相良氏)の力が球磨盆地全体に及びだす時期でもあります。
(*1)
現在のあさぎり町:谷水薬師。元々は東円寺の一部 ➡球磨の風景:谷水薬師堂
*1 人吉・相良初代:長頼四男。上村を領し上村氏と称す。白髪岳山上に禿を再興するといわれている。
*2 暦応元年、皆越白髪神社草創と記録あり。
*3 嘉吉3年白髪神社脇社・麓大王神社草創記録がある。
*4 室は相良長続息女、康正2年白髪神社を皆越から麓に遷座したとの記録あり。
*5 相良長毎弟。文明14年白髪神社修繕。大永4年9月16日卒。法謚・行岳蓮性
*6 室は修理亮長国息女。永正2年白髪神社補修。相良晴弘実父。相良氏の権力掌握。
*7 入道洞然。天文5年洞然状を編成し献上する。天文15年10月20日卒78才。法謚:洞然宗廊
*8 岡本地頭。天文20年8月14日上村頼興に麓城で謀殺。法謚・雪庭清栄
*9 13代・頼興室。相良晴弘母。
*10 天文4年4月8日、上村頼興に攻められ八代で自害。室は大隅・菱刈氏息女。法謚・古岑蓮玖
*11 相良16代当主・長唯(義滋)養子、のちの相良氏17当主・晴広。
*12 上村城落城で逃亡。後に許され戻ったが、謀反ありとして永禄10年4月1日水俣にて自害。
*13 八代:豊福地頭。上村頼孝と相良氏に反抗する。豊福城での戦いに敗れ、弘治3年6月10日鏡で自害。
*14 球磨:岡本地頭。稲留五郎次郎頼定を名乗る。上村頼孝と共に相良義陽に反抗したが敗れ、永禄10年4月13日八代で自害。
*15 永禄10年4月1日父・頼孝と共に水俣で自害。
*16 球磨:久米地頭。室は相良晴弘息女。頼貞の謀反に随行や秀吉の朝鮮出兵の際にも謀反を企てたとして、慶長年間に人吉:中原城・柳江院門で誅に伏す(殺害)。 妻(亀徳:元島津義弘室)と子は貧しい生活を送り、元和年間に餓死したといわれている。法名西津良意。
*17 月渓一雲斉を名乗る。慶長7年卒
*18 薩摩・菱刈氏室へ
*19 那須某室へ
*20 東喜兵衛頼乙室へ
*21 早世
*22 早世
*23 那須六兵衛重康室へ
11代:上村直頼には男子がなく、相良宗家から養子を迎え12代当主:頼廉(よりかど)とします。(*1)
次の13代:上村頼興の時代、相良氏では大永5年(1525)長定のクーデター、長唯(義滋)と瑞堅(長隆)の争いが続きました。
瑞堅(長隆)は兄・長唯を支持して長定を追い出した後、急に当主になろうと気が変わります。しかし家臣から支持されず人吉城から落合加賀守のいる永里城(現あさぎ町)へ退きます。
家臣の支持を集めた長唯は永里城攻めを画策。そのためには近隣の最大勢力・上村氏頼興を味方につけることが重要でした。
上村頼興にとって長唯・長隆は共に従兄弟。両者とも宗家内では庶流で共に大きな勢力を持っていませんでしたから、去就をハッキリさせませんでした。
長唯は頼興を味方にする為、勝ったあかつきには頼興の子・藤五郎頼重を自らの養子として世継(相良氏次期当主)にする条件を出します。頼興はこれを受け入れます。
大永6年(1526)5月15日。長唯は永里・祇園口に布陣、上村頼興は先鋒として永里城北側の諏訪山に布陣。一隊は秋時・木元権現山へ向かわせ永里城を包囲。
5月16日。永里城は一気に打ち破られ 長隆は金蔵寺に逃れて火を放ち、客殿と方丈の廊下で自害。
享禄2年(1529)3月8日、長定クーデターに画策した犬童氏(いんどうし)粛正のため、上村頼興は軍勢を実弟・長種に与え芦北・佐敷(芦北町)へ派遣。7月6日佐敷城陥落。11月19日湯浦城陥落。翌年1月26日津奈木城陥落。犬童氏の拠点を次々と崩壊させます。
享禄3年(1530)1月27日・犬童匡政と一族を捕らえ八代・中嶋で誅殺。3月には犬童長広を八代で捕らえ人吉・中川原で斬首。長定クーデターの中心だった犬童重良父子も各地を流浪した末に捕らえられ誅殺。重良の弟重安も切腹させて悉く粛正。こうして上村氏は相良一の勢力となります。
権力を握った上村頼興は、身内の政敵粛正にも動きます。天文4年(1535)、人望のあった実弟:上村長種を猜疑心から家臣の蓑田平馬允長親に殺させています。(*2)
天文19年(1550)、上村氏長国(洞然)の子で頼興の義兄で岡本地頭(現在のあさぎり町):上村頼春を、配下の峯山讃岐・桑幡六郎左右衛門らに殺害させ、後に頼興の実子・長蔵を岡本地頭にしています。(*3)
天文15年(1546)相良氏宗家16代:義滋(長唯)が死去。頼重は17代当主として相続。
上村頼興は“大殿”と呼ばれ、当主実父として相良氏を支配。戦国大名としての相良氏の勢力も頂点へ向かいます。
(*1)
直頼の室(夫人)は相良氏宗家当主・為続の姉なので、頼廉は甥にあたることになります。
(*2)
求痲外史によれば「吾れ死せば必ず世子(頼重)を害せん・・・」と自分の死後に頼重を殺すと思ったか?
(*3)
頼春は、麓城(上村城)の大手門を入ろうとしたとき、木の陰から覆面の武士数人が現れた。頼春は従者と共に馬を返し西へ逃れたが、泥田で馬の足を取られ動けなくなった所へ矢が馬の腹を射抜き倒れた。頼春は覚悟を決めて従者と共に刺し違えて相果てたと云 われている。
相良宗家を次いだ頼興の子:晴弘(頼重)ですが、弘治元年(1555)43才で死去。その後を次いだのは晴広の嫡子:頼房(後の義陽)は12才。後見に祖父:上村頼興があたりますが、頼興も弘治3年(1557)3月21日亡くなります。
上村氏を継いだ頼房(義陽)の叔父・上村頼孝とその兄弟:頼堅・長蔵は、頼興の死の直後から薩摩:菱刈氏、日向・北原氏と連携し頼孝の相良氏当主擁立と、兄弟による球磨・八代・芦北三分支配を目指し画策したといわれています。(*1)
弱肉強食の戦国時代。実力ある当主が家臣を引っ張っていかなければ存続は出来ません。“幼い前当主の子より、実弟の方が適任だ”として動いたのでしょうか? 当時の上村氏は宗家を凌いでいたからそれも可能かと・・・・。
これを察知した宗家・頼房(義陽)側の三奉行:深水頼方・丸目頼美・東長兄たちは密かに頼房(義房)を支持で団結し、上村氏排除に動き出します。日頃から上村氏の突出し過ぎた力に危機感を感じていたのでしょう。
三奉行側の動きは早く、弘治3年(1557)年3月27日菱刈氏を久木野で迎撃。6月10日、東山城が八代から軍を率いて頼孝の弟・頼堅の豊福城を急襲。不意の攻撃に頼堅は城から逃亡。鏡(現在の鏡町)の福善寺に隠れている所を捕えられ、12日殺害(自害説あり)。上村頼孝は麓城、弟の長蔵は岡本城に立て籠もります。
三奉行側はすぐに攻撃ぜず、7月25日に八代・芦北の兵をもって上村氏配下の上村外記を久木野に攻め、応援に参じた薩摩・菱刈重住を戦死させます。
上村氏に協力して球磨へ侵入してきた日向・真幸院の北原氏を8月11日に赤池口で破り、8月12日には大口から侵入してきた菱刈氏の援軍を撃退。ここで頼孝の麓城、長蔵の岡本城への本格攻撃に移ります。
上村氏の本拠:麓城は、白髪岳山系の一角に築かれた山城でした。背後も深い山で山麓の城下町を城郭に入れた近世城郭の原形の様な城でした。しかし援軍がなく孤立し9月20日落城。岡本城は8月16日落城。頼孝・長蔵は北原氏の日向・飯野(宮崎県小林市)へ逃亡したと求磨外史には記載されています。(*2)
相良氏のお家芸とも言うべき“討ち漏らし”はここでも見事?におこなわれました・・!?
永禄3年(1560)、当主:頼房(義陽)と三奉行側は、無量寿院住持:正阿弥、祐玉寺僧:某を飯野に派遣。頼孝・長蔵を許し召還します。二人は戻って頼孝とその子頼辰は水俣城。長蔵は八代城を与えられました。
討ち漏らし逃げた敵はいつか外敵と結託して攻めて来るかも知れない。ならば懐柔して監視下におく。もし謀反の動きを見せれば討ち滅ぼそう・・・・」という事です。
その後永禄10年(1567)4月1日、義陽(永禄7年(1564)頼房から改名)は頼孝達を討つ事を決めます。謀反の動きあったのかも知れません。(*3)
頼孝・頼辰親子追討の様子を求磨外史に沿ってみますと・・・・。
「公(義陽)、兵を遣して頼孝を水俣城に討たしむ。即ち、深水源八郎長則、諸父参河守長智に謂って曰く、頼孝は公の族なり。軽士をして之を討たしむるは礼にあらざるなり。 吾謂ふ。往きて相戦って死せんと。長智卒然として曰く、可なりと。長則之をいいましめて曰く、亜父は執政の重臣なり。軽々しく言を出すべからずと。
則往きて水俣にいたる。頼孝門を閉ぢて堅く守る。長則、梯して城喋に登り、自ら名を叫んで曰く。「守将罪あり。死を逃るる所なし。堅く守るも何ぞ益せん。吾謂ふ、倶に戦って死せんと。
頼孝之を聞きて門を開きて長則を入らしむ。酒を取りてともに飲み、槍をとりて接戦す。
則槍に中りて殪る。頼孝甲を脱して櫓に登り、大呼してして曰く、大丈夫人の手に死せず。敵来て吾が死を観よと。子頼辰と同じく腹を屠りて死す。士卒悉く戦死す」
頼孝は敵とはいえ当主の叔父であり、先の執政:上村頼興(頼孝の父)の息子。攻将である深水長則は部下に任せるのは礼を失すると、自ら戦う事で敬意を払ったのでしょうか。
4月13日。高橋駿河・東尾張は八代城を攻め、長蔵は自害。
頼孝には頼辰・長陸・利行の3人の男子がおりました(*4)。頼辰は父と共に自害。長陸と利行は若年故に許され、長陸は後に久米の地頭になりましたが、国外の勢力と共闘して謀反を企てたとして、慶長年間に人吉・中原で殺害されたと言われています。利行は僧となって月渓一雲斉と名乗り、慶長7年(1602)に子のないまま没したとさています。こうして上村氏は絶えました。
血で血を争う戦国乱世。叔父・甥・親類でもここまで徹底しなければならない非情さ。そして相良氏をまとめてゆく当主・相良頼房(義陽)にも、過酷な運命が待っています。
(*1)
上村氏三兄弟による球磨・八代・芦北三分支配の画策には諸説あります。
(*2)
薩摩:菱刈氏逃亡説もあるようです。
(*3)
上村氏は薩摩・菱刈氏、日向・北原氏との連携で反抗の機会をうかがっていたとも言われています。
(*4)
頼辰には満菊丸、長陸には鶴松という子がいましたが、いずれも早世しています。
北西側から見た麓城全景。画像奥から手前に直線状に伸びる草の生い茂る小川は、麓城西端のホリゲタ(水堀)。現在一帯は集落や林・田畑になっているが、その当時は山城周辺に武家屋敷を配置し、近世城郭の原形を備えていた。
麓城(上村城)の築城期は不明だが、鎌倉~南北朝時代頃と思われている。
主郭は白髪岳山系・標高270mの山頂にあり、主郭は高城・中ノ城で構成されている。中央に南北の土塁があり、東西両側に曲輪が付く。
南背後の尾根は二重堀切で、西の谷へ竪堀が伸び、東側は畝状竪堀群がある。谷水薬師側の斜面にも畝状竪堀群、東尾根には堀切がある。
主郭から北側へ伸びた尾根には堀切と階段状に続く曲輪群が山麓の集落まで続いている。
南(御館跡側)から見た麓馬場
城は上村氏の勢力拡大と共に拡張し、最盛期には山麓の武家屋敷や東円寺(谷水薬師)を城郭に納め、球磨盆地では指折りの規模に発展。
主に北側からの攻撃(盆地内からの攻撃)を想定して作られていた。球磨の城の大半は山地を背景に防備する城づくりが基本。球磨盆地の外から大規模な攻撃は、険しい山地ゆえに困難である為だ。
山麓の城郭部は白髪神社北側に免田川に沿った崖が西へ続いており、容易に攻め込めない。東は谷水川を渓谷を天然の堀に、東円寺と丘陵を活用。
北側から見た天神馬場
これらの天然の地形を活用し、城防御は平坦な西側に集中できるように作られていた(西側約1㎞先には宮川内川があり一気に攻め込めない)。
弘治3年(1557)相良氏宗家との戦いでは孤立無縁の籠城の末落城。
今は静かな集落となり、御館跡土累・堀・街割や石垣・生垣を構える屋敷など、往事の面影をよく残し受け継いでいる。