相良氏の歴史・近世番外3 続く短命・養子藩主

続く短命・養子藩主

江戸中期~の相良藩(人吉藩)は短命・養子の藩主が続き、ゆえに不安定な治世が続きました。
ここで相良長興以降の藩主を紹介します。

24代藩主・相良長興

相良長興(ながおき)、元禄6年(1691)2月14日23代:相良頼福(よりとみ)の長子として生まれます。正徳2年(1712)9月21日父:頼福の隠居により藩主へ。
享保6年(1721)7月11日、わずか9年で兄弟の長在に藩主を継がせ隠居します。享保19年(1734年)11月6日逝去。享年42歳、健康面に不安があったのでしょうか。

25代藩主・相良長在

相良長在(ながあり)、元禄16年(1703)3月22日(2月22日説あり)、23代:相良頼福の5男として生まれます。在任中は享保大飢饉で藩財政は悪化。享保10年(1725)家中之式制や禁制を制定する。
元文3年(1738)江戸からの帰国途中で発病。6月25日に豊前(大分県)・大里において逝去。享年36歳。吉宗黒印状 相良遠江守宛

26代藩主・相良長峰

相良長峰(ながみね)、享保20年(1735)9月29日相良長在の子として生まれる。元文3年(1738)父の死去により藩主となる。
わずか3歳の藩主であるため、幕府の処罰を恐れた家臣が生年を改竄したとも言われている。 藩存続の為とはいえ大変です~。
当時藩財政は逼迫しており、倹約令などをおこなうが効果は無く、宝暦5年(1755)家老方発案による御手判銀制度を開始するものの、門葉方と家老方の対立が激化(御手判銀事件)。詳細➡近世10参照
宝暦8年(1758)4月、江戸参府の途上中発病し江戸到着後死去。享年24歳。毒殺説あり。

27代藩主・相良頼央

相良頼央(よりひで)、元文2年(1737)7月3日(享保20年(1735)説あり)相良長在の庶弟(母は側室)として生まれる。 宝暦8年(1758)に頼峰死去のため、藩主となる(頼母から改名)。
しかし長在の子で幕府へ届出されていた男子は頼峰のみだった。そのため公式には甥(長在の長女・為姫と一門の相良頼直の子)とされた。
宝暦9年(1759)7月15日、人吉の藩別邸・薩摩瀬屋敷で鉄砲で撃たれる。8月13日(8月11日説あり)死去を発表。享年23歳。公式には病死とされている(竹鉄砲事件)。詳細➡近世10参照

ここに長頼以来の相良氏直系当主(藩主)の血統は断絶します。

28代藩主・相良晃長

相良晃長(あきなが)、宝暦2年(1752)2月20日、親戚の日向・秋月藩主:秋月種美の四男として生まれます。
頼央の仮養子となり、宝暦9年(1759)12月11日頼央暗殺により(公式には病死)藩主へ。宝暦12年(1762)2月4日死去、享年11歳。詳細➡近世10参照

29代藩主・相良頼完

相良頼完(よりさだ)、親戚筋の公家・大納言:鷲尾隆熙の子息(*1)。宝暦12年(1762)12月15日藩主となる。
幕府には晃長は病気が回復し頼完と改名・・・同一人物としました。公式には晃長が家督を継いだ宝暦9年(1759)12月11日家督を継いでいたことに。跡継ぎを決めないまま藩主が死亡した場合、幕府より改易(廃藩)となる事を恐れた苦肉の工作です。
しかし頼完も明和4年(1767)1月17日わずか5年・19歳で死去。・・・・○| ̄|_

30代藩主・相良福将

相良福将(とみもち)、美濃・遠山藩:遠山友明の三男。明和4年(1767)3月5日、相良頼完の末期養子となり、頼完の急死で藩主となります。
初め相良藩重臣は、幕府に日向・秋月藩主:秋月種武の弟・種穀との養子縁組を請願。しかし幕府は却下(*2)。その替わりに幕府から秋月種武の実弟で遠山藩主:遠山友明の三男・友充を推薦されます。これに重臣も同意し、友充(福将へ改名)を迎えます。まぁ~元は同じ縁戚の秋月家血筋ですからね。
在任中は洪水や旱魃が相次ぎ、2万2千石の石高収入が1万4千石まで減少したとされています。これは最悪です・・・・。 そして2年後の明和6年(1769)1月12日、一度も入国しないまま江戸で死去。享年20歳。

31代藩主・相良長寛

相良長寛(ながひろ)、備前:池田藩主・池田宗政次男。明和6年(1769)3月5日、先代・相良福将の末期養子として迎えられます。安永3年(1774)11月15日、長泰から長寛へ改めた。
天明2年(1782)の天明大飢饉に苦心し藩政再建は進みませんでしたが、前藩主:福将の頃に取りかかっていた文教政策を引き継ぎ、天明6年(1786)東白髪を中心として習教館を創設。天明8年(1788)郷義館を創設する。
享和2年(1802)2月5日庶長子・頼徳に藩主を譲って隠居(*3)。文化10年(1813)4月26日死去。享年63歳。

ここでようやく藩主が養子でない跡継ぎができました。よかった~(;´∀`)

32代藩主・相良頼徳

安永3年(1774)5月16日、第11代藩主:相良長寛の庶長子として生まれる。寛政5年(1793)1月28日に跡継に指名。2月5日父の隠居により家督を継いで藩主となる。
藩政では田代政典を家老に登用し財政再建を目指す。文化4年(1807年)、五人組制度再建。文化8年(1811)には検地による年貢増収。新田開発、専売などを行なった。
文政元年(1818)10月6日、嫡男・頼之に家督を譲って隠居。安政3年(1856)10月1日死去。享年83歳。

(*1)
鷲尾家は21代・頼寛の継室:妙光尼は鷲尾隆尚の娘、第22代・頼喬の継室:月仙院は鷲尾隆量の娘。縁戚にあたる。表向きは藩主一族:相良織部の婿養子候補という名目で候補者が探し求められた

(*2)
秋月種武の弟・種穀が、19歳の頼完より年長であるため、幕府は許可しなかった。養子は親子関係ですから父より年長な子ってのはおかしい訳で・・・・秋月家と相良家は過去互いに正室を輿入れしている縁戚。

(*3)
はじめ嫡子(正室の子供)の義休に決まっていたが、寛政4年(1792)9月25日頼休が江戸にて家臣:樅木九郎兵衛を斬殺。寛政5年(1793)1月28日廃嫡となる。