相良氏の歴史・近世6 椎葉・米良の支配

椎葉・米良の支配

肥後:相良藩(人吉藩)との東、日向の山間には椎葉(しいば)(椎葉山・椎葉荘)と米良(めら)(米良山・米良荘)呼ばれる地域があります。
山深い地域のため、他の支配が及びにくい半独立的地域でした。古くから人吉球磨との交流もあり、近世・徳川幕藩体制が固められる中で、両地域は相良藩が支配する(委託又は属領)様になります。

椎葉山騒動

平家落人の末裔が住むといわれる椎葉。戦国期から近世初期には“椎葉山十三人衆”と呼ばれる有力者が支配していました。
豊臣秀吉の天下統一後、向山城主・那須正忠は、秀吉の鷹匠:落合新八郎を饗応したことで御朱印状を授かります。

正忠は身内の那須主膳らとともに十三人衆の中で「那須三人衆」と呼ばれて優位に立ち、他の有力者達とは不仲となって、御朱印派と反御朱印派に別れて対立します。

この対立は隣接する延岡:・高橋氏の仲介で一旦は収まりました。
しかし那須正忠正の死後、息子:久太郎と那須主膳の孫:仙千代が反御朱印派の起こした一揆で殺害されたため、那須主膳が徳川幕府に訴え出ます。

椎葉・米良の位置
椎葉・米良の位置

元和5年(1619)、幕府は阿部正之・大久保忠成を派遣し、相良藩に出兵を命じます。
幕府は椎葉での内紛であるにも関わらす、御朱印状(*1)の権威を守ることを選択。二人を殺害した反後朱印派を攻め140人を捕らえ斬首。その婦人らも自害しています。(*2)

この後幕府は肥後・阿蘇大宮司家に椎葉支配を任せましたが、明暦2年(1656)から幕府直轄領(天領)として支配を相良藩に命じます。これは明治維新まで続きました。
相良藩は対立していない椎葉へ兵を送り、幕府の都合で一方だけを鎮圧する“後味の悪い役目”を負わされたことになりました。それで支配させられたのですから、やりにくかったでしょうね。

(*1)
朱印状とは公式認可状の事。徳川幕府は豊臣・織田の御朱印状も認めた。

(*2)
この鎮圧を後に「千人ざらえ」と呼んだ。

相良藩付庸・米良

日向・一ツ瀬川の上流に米良(めら)と呼ばれる地域があります。江戸時代初期に相良藩属領へ。
この地を支配していた米良氏は肥後・戦国大名・菊池氏の末裔だといわれています。

菊池氏は系図などでは関白:藤原道隆の四代目・藤原則隆(大宰少監)が肥後北部・菊池荘に勢力を張り、菊池氏と称したといわれています。
他説では、肥後の在地豪族で太宰府被官:菊池氏が太宰権帥・藤原隆家の配下となり、後に藤原氏家系を利用した説。また摂津・久々知(くくち:現在の兵庫県・尼崎市)出身の一族が太宰府被官となり土着。菊池氏と読みが変化。のちに藤原家系を利用した説など、いろいろあります。

源平争乱期にはすでに肥後・菊池(隈府)に強い勢力を持ち、菊池隆直が平家方武将として源氏と戦い平家滅亡後は鎌倉幕府・御家人となって存続します。
承久の変では後鳥羽上皇の朝廷側につき、反幕府の動きをとります。敗北後は幕府に従い、元寇でも日本側主力の一部として活躍。

後醍醐天皇による反鎌倉政権(幕府)活動が展開されると、九州反幕勢力の中心として活躍。南北朝の争乱では劣勢な南朝(吉野・後醍醐天皇方)の中で、数少ない優勢を誇りました。
やがて北朝(足利幕府方)が優勢になると力を弱め、本拠・隈府(菊池)も失うなど衰退。南北朝統一後は足利幕府の守護大名として勢力を再建し、戦国初期には肥後随一の力を持つまでに勢力を回復します。

戦国時代になると豊後・大友氏。肥後・阿蘇氏や相良氏・名和氏の勢力が拡大。一族の謀反も起こり、文亀元年(1501)当主・菊池能運は敗れて肥前・島原に逃れます。

能運は自派家臣・肥後諸氏に迎えられて戻り、宇土為光を破って隈府を回復しますが、能運は戦での傷がもとで死亡。一族の菊池政隆が当主を継ぎます。

それでも菊池氏の内紛は収まらず家臣の反乱で政隆は追われ、隣接する阿蘇氏から菊地の血を引く武経を当主とします。

さらに豊後・大友氏の介入にあい、永正17年(1520)大友の意を受けた一族の菊池武包が就きます。しかしその武包も大友氏によって追われ、大友義鑑(大友宗麟の父)は実弟・義武を当主につけます。
ところが義武は大友従わずに反抗。天文23年(1554)大友義鎮(宗麟)に攻められ逃亡し後に自刃。ここに菊池氏宗家は断絶。

米良氏は菊池能運の子・重為が内紛を避けて日向米良荘へ落ち延び、その孫といわれる重次が米良姓を名乗ったのが最初だと伝わっています。(*1)
米良氏は戦国期、椎葉・那須氏等日向の国人と対峙しながら戦国大名・伊東氏とも結び、米良一帯の支配を認めさせ、日向で重要な位置を占める様になります。

伊東義祐が伊東氏当主の時代には、紙屋・戸崎・須木・門川・山陰・坪屋・雄八重・平野など、日向内陸部で広範囲に勢力を張り、天文2年~3年(1533~34)の米良一揆では伊東氏を左右する勢いに。
「日向記」によると、米良氏一族は伊東氏勢力拡大と「伊東崩れ」といわれた伊東氏崩壊に関わった人物を出しています。

肥後・相良氏で起こった獺ヶ原の乱では相良義陽に協力し、一族・家臣を送り入れるなど球磨にも影響力を持ちます。(*2)

この後島津氏の九州制圧、豊臣秀吉の九州出兵を巧みにを生き残り 延岡の高橋氏との争い、関ヶ原の戦いの翌年慶長5年(1601)、徳川政権から領地を“お鷹山”指定を受け、所領安堵を取り付けています。


米良氏系図

戦国期の米良氏一族

米良弘泰

野ノ美城主として島津方に攻められ死守するも討死。

米良重方

永禄11年(1568)伊東氏が島津方の飫肥城を包囲。状況不利とみた島津氏は伊東氏家中に対して影響力が強い重方に和睦の仲介依頼。
交渉の結果、伊東氏は和睦の条件として飫肥城を含む4つの城を手に入れ、さらに島津に奪われていた大隅・肝付の福島院をも返させることに成功。この功により重方は伊東氏より地福六町を所領することになる。元亀3年(1572)島津氏との木崎原合戦では、敗走する伊東勢を逃がすために殿軍をにつとめ討死。

米良矩重

重方弟。兄の死後伊東氏側近:帰雲斉が兄が得た所領:地福を取り上げる。矩重は憤慨し須木城安堵を条件に島津方へ寝返る。“伊東氏の島津に対する備え”だった矩重の寝返りは、木崎原での惨敗で弱体化した伊東氏をさらに混乱させる。
島津氏へ寝返る家臣達を見て伊東氏は日向を捨て、豊後・大友氏へ逃れる。
その後豊後や伊予を流浪した伊東氏は豊臣秀吉に仕官。伊東祐兵が九州出兵での功により、日向・飫肥を拝領。
伊東氏復領を知った矩重は、島津氏を出奔。飫肥城で伊東祐兵に詫びて御前で切腹を願い出る。祐兵は矩重を許し家臣とした・・・これは島津の内情を探るため許したとも言われている。

米良四郎左衛門尉

日向・門川城主。伊東氏崩壊後島津氏に人質を出して降伏する。
一方で極秘理に日向情勢を豊後へ流し、大友氏支援と伊東氏再興を謀る。大友氏の日向進攻に大友方として、高城攻めの際戦死。

徳川幕藩体制が固まる中で1万石に満たない米良氏は大名ではなく、隣国肥後・相良藩付庸となります。米良重隆の代より、交代寄合格として5年に一度江戸へ参勤交代の資格を有しました(*3)
交代寄合とは、本来徳川直参の旗本に与えられるものですが、幕臣ではない外様の米良氏が同等の格式を与えれたのは珍しい様です。
幕末期の米良氏は、当主・則忠を中心に勤王・倒幕運動に参加。明治時代には菊池姓に戻し勤王の名族・菊池氏の末裔ということで華族に列せられました。

(*1)
重為が落ち延びたと思われる文亀年間から、重次までの米良氏は曖昧で経過には諸説あります。

(*2)
人吉球磨に多い米良姓系の苗字は、この時期に入った米良氏子孫か?

(*3)
江戸参府中は相良藩江戸屋敷に滞在。

最後の領主・米良(菊池)則忠

米良氏17代:米良則忠は、天保元年(1830)日向:米良・小川生まれ。
嘉永二年(1850)家督相続。幕末期の勤王・倒幕運動に家臣・甲斐大膳・大蔵親子らと共に参加。明治維新後は先祖とされる菊地姓を名乗る。
廃藩置県・版籍奉還の際には領地を領民にすべて与え、領民生活に配慮した。さらに教育に力を注ぎ、弘文館(後の米良小学校)の開設に尽力。
明治10年(1877)西南戦争後家督を譲り、米良神社宮司となる。明治41年逝去。