相良氏の歴史・近世9 百太郎溝と幸野溝

百太郎溝と幸野溝

人吉・球磨盆地は豊かな田畑が拡がっていますが、これは先人達の努力によるものです。
球磨川周辺の低地は太古の時代から川の恩恵を受けた耕地があります。しかし球磨川は“盆地の底”を流れるため、球磨川の南東部、白髪岳・大平山などを主峰とする山麓は水の便が悪く、開発が進みませんでした。
この地域を開発するため、中世から近世にかけ2本の灌漑水路が造られました。

百太郎溝

百太郎溝は多良木町の球磨川南岸の取入口から始まり、多良木町・あさぎり町を通り、錦町・原田川に至る灌漑用水路です。
全長約18km。灌漑面積は約1400haに及びます。

工事の開始時期は不明ですが、第一期は鎌倉時代に現在の樋門付近から多々良木町・青木川まで作られたと考えられています。
江戸時代になって新田開発が急務となり延伸工事が始まります。

百太郎石樋門 
百太郎溝 旧樋門

第二期:延宝5年~8年(1677~1680)頃、井口川迄。

第三期:元禄9年~10年(1696~1697)頃、免田川迄。

第四期:宝永元年~2年(1704~1705)頃、原田川迄。

第五期:元文5年(1740)頃、さらに西へ進めようとして成功しなかったと云われ、終了時期は宝永7年(1710)と見られています。

工事は相良藩の援助は殆ど無く、すべて流域農民達によるよるもので難工事の末、成し遂げられたのです。

現在の百太郎樋門
現在の百太郎溝樋門 左側が百太郎溝

樋門は昭和35年に始まった百太郎利水南部改修工事の際、新しい樋門と交換されるまで一度も壊れることもなく使われました。

現在旧樋門はすぐ隣の百太郎公園に保存され、昭和36年多良木町指定史跡に指定されています。

百太郎公園の位置

あさぎり町を流れる百太郎溝
あさぎり町を流れる百太郎溝

百太郎の人柱伝説

原野に球磨川の水を引き入れようと農民達は考えましたが、堰を何度作っても洪水で壊れ困っていました。
ある年の秋祭の前夜、世話人の枕元に水神が現れ、
「明日の祭には袴に横縞のツギを当てた男が参詣する。その男を樋門を作る時に人柱とすればよい・・・・」と告げました。

世話人は早速その事を村人に話し、翌日の秋祭の参詣する男達を見ていたが、横縞のツギ当ての袴をはいた男が現れた。男は名を百太郎といった。

農民達は藩に堰の工事再開と人柱を立てる許可を得て、川の水量が減る冬に工事を進めます。
百太郎は正直者で知られ、老いた母思いのよい男でしたが、母を残して尊い人柱になることを承知。樋門の大石柱の下に胸に手を組んでは生きたまま柱の下に埋められました。
農民達は人柱となった百太郎に手を合わせ念仏を唱えつつすすり泣いたといいます。

百太郎が人柱となった後、何度も洪水が襲いましたが、樋門も水路も壊れず、原野は豊かな耕地となりました。

農民達は洪水や大雨のごとに百太郎を思い起こして感謝し、何時の頃かこの溝を「百太郎溝」と呼ぶようになったそうです。

一説では百太郎は技術者で、彼の提唱した樋門が洪水で一夜にして流出したため、その責を負って自決した。または自ら水神のお告げとして人柱になったとも云われている。

百太郎溝・幸野溝概図
百太郎溝・幸野溝概図(地名は旧名)

幸 野 溝

幸野溝は現在の水上村幸野(幸野ダム)を基点として百太郎溝の東側(さらに山より)、湯前町・多良木町・あさぎり町(旧岡原村・上村)を経て錦町・高柱川までの全長約16km。灌漑面積は約1200ヘクタールに及びます。
この水路は相良藩による事業であり、指導した相良藩士:[高橋政重]の功績によるところが大きいものでした。

高橋政重は22代藩主[相良頼喬]の命で領内を巡察。その際に湯前から久米(現在の多良木町久米)一帯の山麓に原野があることを知り、元禄10年(1697)相良頼喬は高橋政重を初めとする家臣に水路開堀と開墾を命じます。

水路は幸野(現在の水上村幸野)で球磨川に水門を設け、湯前-久米-岡原-上村と開堀。元禄11年(1698)にひとまず完成しますが、吸水性の高い火山灰土壌の為、思うように流れず苦心します。

幸野溝の基点幸野ダム
幸野溝基点:幸野ダム(第2市房ダム)
旧取入口はダム堤防から少し上流部

元禄12年(1699)6月20日の大雨で幸野の樋門が破損。その後何とか復旧し完成まであと一歩まで来た元禄14年(1701)5月10日、再び大規模な洪水が発生。復旧した樋門が破壊、水路が決壊して流域田畑も大きな被害を出してしまいます。

元禄16年(1703)藩主:相良頼喬が死去。23代藩主:[相良頼福](頼喬の従兄弟)が跡を継ぎ工事継続の許可を出しますが、幕府より利根川改修工事の命を受けたため、幸野溝にまで手が回らなくなり中止。・・・不運の連続(-_-;)

あさぎり町(旧岡原村)を流れる幸野溝
あさぎり町(旧岡原村)を流れる幸野溝

これら2度の被害で、協力していた農民達にも諦めの空気が出始めて事業は停滞へ。
高橋政重はここで諦めず村を回り寄付を乞いながら、自力で念仏講を開いて資金調達を行い工事再開に動きます。この熱心さに相良藩も動かされ、宝永2年(1705)3月工事再開の許可が。

難工事は続き、途中工事指揮の同僚二名が病で辞職。政重は独力で工事を指揮。
薩摩から暗渠を掘る工夫を雇い入れ水路・水門の改良を行い、同年12月ついに全行程が完成します。

 あさぎり町 川を水路橋で越える
あさぎり町 川を水路橋で越える

幸野溝の完成で相良藩の収入は約3千石の増収となり、藩主頼福は政重の功績を高く評価。30石から50石に加増。次の藩主長興は100石へ加増し勘定役を命じます。
公称2万2千石の相良藩にとって3千石の増加は驚異的な増収です。

幸野溝の工事が始まった頃、高橋政重は48歳。決して若くない、また高役・高禄でもない一藩士が藩命とはいえ、幾度の挫折で同僚や農民が見放す中、自力で工事を進めるほど執着したものは何だったのか?
・・・・今も豊かに広がる球磨盆地の田畑にその答えがあるのかも知れません。政重は民衆から讃えられましたが、成功を神仏の加護として寺社へ勧進・寄進する事に勤め、本人は全く誇らなかったといいます。

阿紺女の木遣唄

昔、阿紺女(おこんじょ)という大変力持ちの女性がいました。身の丈六尺の堂々たる仁王様のような体格で、声は雷のごとく然も美声。子に乳を呑ませる時は子を背負ったまま呑ませられるほど長大な乳房だったそうです。

阿紺女が若い頃、幸野溝の樋門が壊れ修理が行われました。しかし礎石を据える作業に手こずり、人夫を動員しても動かず難工事になってしました。それを知った阿紺女は男装して駆けつけ、木遣唄を唄いながら縄を引くと巨岩は動き、工事は完了したそうです。

以来、この岩を阿紺女岩と呼ぶようになったと云われています。

別の言い伝えでは、阿紺女は工事中毎日巨岩の上に立って美声で木遣唄を唄ったので人夫達の仕事もはかどったので、阿紺女が立った岩を阿紺女岩と呼ぶようになったと云われています。

球磨盆地内の河川は、球磨川に向かって流れています。百太郎溝と幸野溝だけは人工的に球磨川に沿って流れます。
このため球磨川へ流れる河川や谷と交差する事に。これを越えるため、水門・サイホン・トンネル(暗渠)や水路橋を設けて勾配をつくり西へ西へと流れていきます。
これらの技法は今でも灌漑水路工事で使われています。しかし現代の土木技術・機材を用いても2本の溝の距離・規模となるとは大工事ですから、人力や牛馬だけの昔となるとその苦労ははかり知れません。

二つの水路は今でも現役。改良されながら各地の田畑に水を運んでいます。球磨盆地を埋め尽くす耕地は、豊かな自然の恵みを連想させますが、そこには長い年月をかけて重ねた人々の努力と苦労があったのです。

相良藩はこの他にも新田開発を進め、寛永年間には約2万石の増収に成功しています。
しかし、藩の財政難を根本的救済するまでには至りませんでした・・・・・・残念(-_-;)

幸野溝 コンクリート製水路橋
幸野溝 コンクリート製水路橋

幸野溝:百太郎溝水路群は
平成28年度
世界灌漑施設遺産登録施設に
登録されました