相良氏の歴史・中世番外3 北原氏の人吉城攻め

北原氏の人吉城攻め

大永6年(1526)7月、日向・真幸院に勢力をもつ北原氏が、相良氏の混乱に乗じて人吉へ攻め込んで来ます。
北原軍は相良氏と対立していた一向宗を扇動して味方につけ、人吉城周辺の梅花の森、中河原、宗慶寺地蔵山に軍を配して人吉城を包囲。

相良勢も上村氏をはじめ配下諸氏が兵糧を送り込むなどして人吉城を救援、城からも打って出て北原勢と激突しますが、北原も包囲の手をゆるめず、戦いは膠着状態になります。
やがて相良の援軍と思われる軍勢が松明を持って人吉へ押し掛け、赤池・十島・花立で北原勢を混乱させます。これで均衡が崩れ、北原軍は撤退。


当時の肥後・日向概図

北原軍は日向・伊東氏の援軍と判断し撤退したと云われています。援軍は伊東氏ではなく、相良氏配下によるによる陽動作戦。

人吉城を囲まれた当主・相良長唯(のちの義滋)は、祐玉寺の僧・樹薫に密書を持たせ、密かに皆越(現あさぎり町・皆越)へ派遣(*1)
密書を受け取った皆越・地頭・皆越守貞は、高土原(現在のあさぎり町・旧上村神殿原付近)でのろしを上げて存在を誇示。夜になって100あまりの兵にたくさんの松明をも持たせ、大軍にみせかけて攻め込みます。さらに人吉城下や各地で「伊東の援軍がきた~!」と、偽情報を流して混乱させています。

当時の北原氏は日向で伊東氏と対立していたので、挟撃を恐れたのでしょう。
相良氏が領内に攻め込まれた事件はこれぐらいかな?(*2)

(*1)
皆越は人吉球磨盆地の南東奥にあり、盆地側(北原勢)から動きの把握がしずらい地域。皆越守貞は北原勢を追い払った功により、長唯から今井(あさぎり町・旧上村今井)の田畑8町歩を領地としてを賜る。使者となった樹薫は遷俗し久保田志摩守と称させ刀と田畑三町歩を与えた。

(*2)
島津氏が水俣城包囲の時は和睦(事実上降伏)で乗り切っているので回避していると判断しています。このほか薩摩勢が皆越から侵入し、白髪岳山中で雷雨のため撤退など、求磨外史などに記述があるものの、詳細は不明。