相良氏の歴史・中世3 上相良氏の滅亡

上相良氏の滅亡

中央の争乱が球磨にも

下相良氏(人吉)と上相良氏(多良木)並立の相良氏。そして球磨各地に割拠する御家人。両相良氏は球磨総てを治める力は有りませんでした。

やがて鎌倉政権(幕府)が滅び、建武の新政もすぐ瓦解。その後足利氏による室町政権(幕府)が成立しますが、強力な政権は生まれず、南北朝の争乱が全国に飛び火していきました。

この争乱期、永吉庄・木上村(錦町)、山田村(山江村)の領有をめぐって上相良4代[相良経頼]は須惠氏・永里氏・岡本氏・奥野氏・久米氏と共に南朝方に。下相良氏5代[相良頼広]・6代[相良定頼]は北朝方につき対立。

やがて北朝方が優勢になると下相良氏が勢力を拡大。上相良氏は勢力を弱め、正平元年(1346)北朝方に転身します。

正平3年(1348)に南朝・懐良親王が九州に下向。肥後北部の菊池氏を中心に南朝の勢いが増すと、正平7年(1352)上相良氏は再び南朝に転じます。しかしこの頃には下相良氏が球磨の大半を勢力下に入れ、覆すことは難しくなっていました。

南北朝に加え、足利初代将軍・尊氏と弟・直義が対立した「観応の擾乱」もあり、九州諸氏は去就を二転三転するようになります。正平23年(1368)下相良氏7代[相良前頼]も北朝方から南朝方へ転身。

応安4年(1371)足利幕府は今川了俊を九州探題として下向。まさに刺客ですな。そして太宰府を奪還し菊池氏ら南朝方を圧迫。この中で下相良氏はふたたび北朝方に転向。・・・・まぁコロコロよく変わります

永和7年(1381)、今川了俊は肥後・薩摩・大隅・日向の諸氏に呼びかけ、関係がこじれて南朝方になっていたの島津氏攻略に動きます。

これに両相良氏も応じ、相良前頼は今川義範とともに八代・葦北を攻め、津奈木・湯浦・水俣を攻略。しかし恩賞は少なかったようで不満プンプン!

そこで南朝方に転じて薩摩・島津氏と連携、菊池氏と共に北朝・今川氏と対立。相良氏は肥後における南朝方の重要な存在となります。

そんなこんなで、明徳3年(1392)南北朝合一

九州では九州探題・今川氏と島津氏の対立が残り、下相良7代前頼は今川氏側に従軍し応永元年(1394)日向・都城に出陣。島津元久との戦いで戦死・・・(-_-;)

応永2年(1395)今川氏は突然九州探題を解任され、渋川氏が後任に下向するんですけど、勢力は振るいませんでした。

島津氏では内部抗争が起き、総州・島津伊久と奥州・島津元久の対立がはじまります。この争いに下相良8代[相良実長]は総州方につき、応永8年の鶴田合戦では奥州・島津元久を敗走させています。

島津氏の争いは奥州・島津元久が勝利しますが、その後元久の後継をめぐる争いが起きます。一族の伊集院頼久が我が子を跡継に押して元久の弟・久豊と対立。相良は久豊側に協力。島津氏は実長の子で9代[相良前続]に山門院三百五十町を与えています。さらに久豊は前続を婿として姻戚関係を持ち、下相良氏は島津氏(奥州家)との協調で、薩摩・大隅へ勢力を持ちます。

雀ヶ森の合戦

下相良9代前続は嘉吉3年(1443)死去。後継に幼い11歳の嫡子・尭頼支持派と、一門で有力な[永留長続](*1)支持派に分れます。

永留長続は尭頼の次の後継当主を永留氏から出す事を条件に尭頼を支持、球磨の諸氏も大半が同意。[相良堯頼(たかより)]が10代目を相続。

文安5年(1448)2月、密かに勢力挽回を企てていた上相良氏8代[相良頼觀(よりみ)]と弟の[頼仙(よりひと)]は、桑原氏(*2)と共に堯頼がいる人吉城を攻めます。

城は700余人の攻め手によって陥落。堯頼は薩摩・菱刈(鹿児島県)へ逃亡。この時下相良氏側で対抗したのが、山田城(現在の山江村)の永留長続。

長続は人吉城を攻め、桑原氏を滅ぼし、上相良氏の兵を多良木へ追いやります。そして堯頼に人吉へ戻るよう促したのですが、堯頼は、「私に当主の資格はない。長続が後を継いでほしい・・・・」って辞退した上に、3月には死んじゃいました。

一説では堯頼は牛が好きで、菱刈で飼っていた牛が偶然堯頼を角で突き、その傷がもとで死んだとか? 不運な10代当主・堯頼の墓は菱刈にあり、他の当主に比べて陰が薄く忘れられているようです。

5月、初代長頼以来の血統が途絶えた下相良氏は、2代頼親の血をを引く永留長続が家臣達に推され、当主を相続することになります。

長続の下相良相続は人吉城奪回の功労者なので当然の結果でしょうけど、直近の血筋じゃないんで家臣をまとめるのは大変だった様です。これに呼応するかのように上相良氏の頼觀・頼仙兄弟は、鍋城(現在の多良木町黒肥地)などに兵を集めます。

このままじゃあ諸氏の反乱が起きかねない!!・・・・ここで長続は先に打って出ます!!。

8月5日早朝、長続の軍は久米(現在の多良木町久米)にある上相良氏の砦を襲撃。派手に火を放ち鍋城(現在の多良木町・黒肥地)に向けて見せつけます。

あわてた頼觀・頼仙は家臣の制止を聞かず500余の軍を率いて出陣。そこを長続が配置していた伏兵と本隊で挟撃して討ち取ります。

長続は上相良氏を一気に討ち滅ぼし、不穏な空気一掃をねらった訳なんでしょう。

両相良氏と雀ヶ森の合戦
両相良氏と雀ヶ森の合戦

そのためには下相良兄弟に籠城させて長引びかせると家臣に反逆させる隙を生じてしまう。そこで頼觀・頼仙の気性を利用したのかも? どうやらこの兄弟って、ケッコウ血の気の多い兄弟だったのかもね? この戦いを[雀ヶ森の合戦]と呼ぶそうです。

頼景以来8代、約200年続いた上相良氏(多良木相良氏)はここに滅亡し、下相良氏が[相良氏]として球磨の全てを支配し始めます。

といってあっさり明治で終了にはならないよ。(^_-)

(*1)
下相良氏2代頼親の長子:頼明は病弱で家督が継げず永留氏を開く。長続はその9代目。

(*2)
下相良氏3代当主・頼俊の子の長俊が祖。

上相良氏末裔が・・・!?

上相良氏滅亡時の当主:相良頼観の子[鬼太郎]は、球磨を逃れて周防の守護大名・大内氏の家臣になったと伝わっています。

大内義興の家臣に[相良正任]の名がみられ、鬼太郎の事ではないか?といわれています。さらに正任の子と思われる[相良武任]は、次の当主・大内義隆側近として信任が厚く文官としての能力は高かった様ですが、譜代家臣の反感を買って出奔。後に陶氏の謀反で大内義隆を自害させた時、武任も捕らえられ殺されています。