相良氏の歴史・近世1 うち続く大乱

うち続く大乱

上村氏と対決

18代 [相良)頼房(義陽)]は長続以来の戦国大名としての勢力を受け継ぎ、大きな反乱を制して、相良氏を発展させた当主です。

それで“信長の野望”など戦国のゲームでその名が登場する相良氏を代表する殿様です(^o^)。

そして歴代の中で稀にみる波瀾万丈な生涯をおくった当主といえます。

弘治元年(1555)17代・相良晴広(頼重:父は上村頼興)が急逝。頼房(義陽)は12歳で18代当主に就きます。 上村頼興(*1)は孫・頼房をバックアップし始めますが、弘治3年(1557)死去。

上村氏家督を継いだ頼孝、その弟:頼堅・長蔵(いずれも頼房の叔父)は父・頼興の権勢を引き継ぐ事になり、他の家臣は警戒強め始めます。(*2)

相良頼房(義陽)
相良頼房(義陽)
画像提供 人吉城歴史館

相良氏家系図(戦国)

頼房側家臣は先手を打ちます。相良三奉行の東長兄・丸目頼美・深水頼方は、上村3兄弟の一人、頼堅を弘治3年(1557)攻め滅ぼします。

上村氏本拠・麓城(あさぎり町旧上村)の頼孝、岡本城(あさぎり町旧岡原村)の長蔵は、薩摩・菱刈氏など協力を求め対抗しますが、果たせず居城に籠城し共に敗れて落城。頼孝・長蔵は日向・北原氏へ逃亡。その後和睦し帰国して水俣などに所領も与えられました。

しかし永禄10年(1567)、攻められ自害。長蔵も殺害。ここに相良初代長頼の四男・頼村から14代続いた上村氏は滅亡します。なんかこれもまた過去の繰り返しみたいです。

★上村氏について詳細➡ 近世番外1

(*1)
16代義滋(長唯)の後盾、17代晴広(頼重)の実父であり、権力を握った上村頼興は大殿と呼ばれていた。

(*2)
頼房(義陽)は幼いため上村頼孝(頼房の叔父)は父の権力を継ぎ、相良氏宗家当主になる野心を起こしたとも云われています。

獺野原の戦い

相良氏の内紛は止まりません。上村氏滅亡から二年後の永禄2年(1559)。今度は奉行の東長兄と丸目頼美の対立が深刻に。(*1)

策に長けた東長兄は、いち早く幼い頼房の生母(*2)を味方に取り込み、官軍となって軍勢を丸目の屋敷に差し向け、焼き討ちをかけます。

賊軍にされた丸目頼美も負けてはません。相良氏お得意の“お家芸”とも言うべき“討ち漏し!?”(^O^)ゞ によって姻戚の東直政がいる湯前城まで逃げ延び日向・椎葉の那須氏らを味方につけて軍をおこします。

獺野原の戦いと上村氏攻め 
獺野原の戦いと上村氏攻め

こうして相良頼房軍(実権は東長兄)と丸目・東直政軍は相良氏家臣を二分して各地で戦いを繰り広げ3ヶ月あまり、相良氏家臣団全体を巻き込む大乱となりました。

これほどの規模の乱は過去相良氏ではなかったものでしょう。最後の獺野原(うそのばる)の戦い(現在の多良木町黒肥地付近)で、丸目・東直政の軍は敗れ東直政は討死、丸目頼美は日向へ逃亡。(*3)

翌年戦いの傷がいえたころ頼房は、領内一門・家臣の引き締めをはかっています。このあたりから相良氏当主は家臣連合議長から、専制支配体制を取り始めたといえます。(*4)

功賞をおこない、特に活躍した須恵・深田・木上・上村の地頭に勲功を賞して褒状を与え、戦死者の遺族にも褒状を与えます。(*5)

このような大乱も一旦は落ち着くのですが‥‥。

(*1)
東長兄と丸目頼美の対立の発端は、児玉某、早田某、深水某の三人と宗慶寺の修行僧・智勝が女性を巡って反目しあった事であったといわれている。やがて大乱になって3人は恐れて身を隠して いたが、争乱終結の翌年:永禄3年に三人は捕らえられ、智勝も後に一味であることが露見、 四人とも人吉城下の中川原で斬首され赤池原にさらされた。それにしても家臣団を二分する大乱の原因が“女性争い”だったとは。

(*2)
頼房(義陽)の生母。後に内城様と呼ばれる。木上村(現在の錦町木上)上田市左衛門の娘。晴広(頼重)の室となり内助の功に優れたという。獺野原の戦いで東長兄がいち早く味方に取り込む事などから、家臣にかなりの影響があったものと思われる。関ヶ原の戦い後は徳川政権への従属の証として江戸へ赴き、慶長10年(1605)81歳で逝去。

(*3)
敗れた丸目頼美は日向へ逃亡し伊東氏の元に身を寄せる。のちに島津氏と伊東氏との戦いで戦死したともいわれている。

(*4)
といっても相良法度などで権力に規制はあったようです。

(*5)
中でも木上地頭・久保田(窪田)越後、上村地頭・犬童頼安の働きはめざましかった。弓で敵を多く射た久保田弥九郎・西佐吉・塚原与兵衛も賞されている。

木上飛地 太平山

現在の球磨郡錦町にある太平山は、旧一武村の中にあった木上村の飛び地でした。その由来が獺野原の戦いであるとの言い伝えがあります。

木上地頭・久保田(窪田)越後は、自領の軍勢を率いて多良木(鍋)城の守備を受け持っていました。やがて敵方の・丸目頼美・東直政の軍勢が来襲。久保田は自軍を巧みに指揮し兵もよく戦って敵を撃退。自軍の勝利に大きく貢献。

翌年相良頼房(義陽)は恩賞として久保田に田畑:五町三反(約53,000he㎡:甲子園球場1個弱)を、与える事にしました。
対して久保田は「・・・このたびの功は私の功ではなく、領民(軍勢)の働きによるものであります」として辞退。その上で「功によって賜った田畑を大平山と引き換えて木上領としていただけでば領民も喜びましょう」と言上しました。

領民を思う久保田に感心した相良頼房(義陽)は、恩賞の田畑とは別に木上領民に対し、大平山を与えたと云われています。

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