相良氏の歴史・近世12 寅助火事と丑歳騒動

寅助火事と丑歳騒動

寅助火事(人吉大火)

安政2年(1855年)、相良氏34代藩主:相良長福は江戸からの帰国途中に発病。帰国後の7月12日病死。享年32歳。長男:頼紹(武之進)はまだ幼少のため、長福の弟が35代藩主:相良頼基となります。

文久2年(1862年)2月7日の正午頃、人吉城下鍛冶屋町の鉄砲鍛冶職人:恒松寅助(つねまつ とらすけ)(*1)の家から出火。冬で空気が乾燥していた事と強風の為、城下へ燃え広がりました。やがて火の粉は球磨川を越え人吉城へ延焼。相良藩内ではかつてない大火となってしまいました。(-_-;)

城内の焼失箇所

外曲輪    
武之進様御住所
役人詰所   
番 所    
社      
寺      
客屋続供長屋 
供長屋続長屋 
手廻長屋   
武術稽古場  
鉄砲稽古場  

全 域
1箇所
6箇所
8箇所
5箇所
2箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所

鉄砲稽古場詰所
能 舞 堂
家中侍屋敷
家中土蔵
家中長屋
納 屋
土 蔵
塩 蔵
砲術稽古場

1箇所
1箇所
15軒
10棟
9軒
9棟
7棟
3棟
2棟
2棟

城内で焼失を免れた箇所

高御城御太鼓番所
御次間
中ノ御門
御米蔵
御小納蔵
御 膳
御金蔵

西洋流大砲入蔵
漆 蔵
代物蔵
大手櫓
水手御門
堀合御門(*2)
谷口舟場所

幕末の日本

嘉永6年(1853年)7月8日。アメリカ・ペリー艦隊(黒船)が来航。日本は長い鎖国を解き欧米列強との関わりを持つことになった。
これが国防意識の高まりと尊皇攘夷等の思想を生み、薩摩・長州・土佐・肥前など有力藩も台頭して徳川幕藩体制を揺るがす事態に発展。
幕府は大政奉還をで勢力の存続を計ったが、倒幕諸藩は徳川を権力から排除する王政復古のクーダーターを起こし明治維新が始まります。
封建から近代へ移る中、各藩も変革を迫られ保守と改革の抗争などが続くことになります。
相良藩は財政改革が挫折して近代化もママならず、幕末期に至ります。

城下の焼失箇所

球磨川大橋(22間残)
米良主膳頭邸宅


町屋本棟
町屋脇本棟
客 屋
新馬場舟場役人詰所
本蔵番所詰所
学 校
武術稽古場
武術稽古場詰所
庄屋許
高 札
町 屋
家中侍屋敷
郷侍百姓屋敷
家中侍長屋

1箇所
1箇所
11箇所
9箇所
2箇所
2箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
1箇所
368軒
95軒
86軒
21軒

町屋明屋
鍛冶屋
火番家
社 家
修験道
町屋小屋
町屋土蔵
本 蔵
土 蔵
物産会所
二日町具足打立所
新馬場舟場御蔵米
牢 屋
納 屋

釜 屋
空 家

   

21軒
14軒
5軒
3軒
3軒
275棟
73棟
5棟
4棟
3棟
2棟
1棟
2棟
1棟
15宇
2軒
4軒
1匹焼死
3匹焼死

幕末の人吉城

文久2年(1862年)
人吉大火以前撮影


多聞櫓付近の写真


角櫓付近の写真


大手門正面の写真

・・・人的被害は奇跡的に死者なし。負傷者3名程度。

藩は城下復興の為に那須四方介、菊池七郎左衛門を営中普請奉行に任命。復興資金として一万五千両が必要と算出されます。そこで肥後の隣藩・細川藩に勘定奉行:犬童権左衛門が赴き、借入を申し入れましたが、断られましたOrz。(*3)

このため江戸に出府途上にあった家老:渋谷三郎左衛門が大阪・近江屋へ借金を申し入れ、一万両融資を取り付けます・・・・

あと五千両を都合する為、犬童権左衛門は渋谷練助と薩摩藩へ。重役:桂久武は五千両の借金を承諾。さらに薩摩藩は琉球大平布10匹、畳表100枚の見舞いと大工などが多数派遣され、復興支援が手伝われます。

この大火を寅助(とらすけ)火事、又は人吉大火とも呼ばれました。

(*1)
火事を起こした恒松寅助は故意ではなかった為、失火料を課されたのみの寛大な処分で済んでいる。別説では薩摩へ逃れたが、鉄砲鍛冶という技術者である為に帰藩が許されたともいわれている。

(*2)
廃藩置県で取り壊しの際に他へ移築され、人吉城で唯一現存する遺構として保存されている。

(*3)
細川藩は幕府より相模での警備を命じられ、経費がかかって余裕がないとして断られている。

丑歳(うしのとし)騒動

幕末。開国と文久3年(1863年)の薩英戦争(*1)で、欧米の西洋式軍制の必要性を改めて悟った各藩は、軍制改革を考えます。西洋諸国の軍隊に鎧・刀・火縄銃では戦いになりませんからネ。

相良藩では寅助火事で武具等を失った事を契機に、西洋式軍制の導入を計ります。そこで高島流砲術(*2)を学び、幕府に倣ってオランダ軍制採用を進言していた松本了一郎を起用。改革に乗り出します。

松本了一郎らを中心とする派は、洋式派(佐幕派)と呼ばれました。一方旧来の山鹿流軍制の新宮行蔵那須拙速らは、保守派(勤王派)とされました。

この二派は相容れずに対立します。相良藩はまとまらない・・・・

各藩でも軍制や政治思想を巡っての対立はありましたが、相良藩では洋式派(佐幕派)が優勢となり、松本了一郎は藩の用人となって、オランダ式軍制へ改革が推進されます。(*3)

しかし隣国のイギリス式軍制を採用する薩摩藩は次第に倒幕勢力となって同調を求めて来る中で、藩主:相良頼基は洋式派(佐幕)の松本了一郎らとは疎遠になっていきます。

その中「洋式派が藩主:頼基を廃し、甥の武之進を擁立する・・・・」との噂が流れ、相良頼基は保守派:新宮行蔵等を復帰させます。

洋式派(佐幕)

オランダ式軍制を推進
幕府を助ける佐幕思想

 × 

保守派(勤皇)

山鹿流軍制を保守し
朝廷を守る勤皇思想

幕末の思想は情勢で変わる事が多かったが、相良藩では内部対立に終始してしまった。

慶応元年(1865年)9月25日深夜、行蔵の意を受けた神瀬慎八らは松本了一郎ら洋式派14人を上意討ちで殺害し、保守派が主導権を掌握。この事件は干支(えと)が丑歳(うしどし)だったため、丑歳騒動と呼ばれています。

しかし軍制は山鹿流は旧式なため廃され、オランダ式も薩摩への配慮から廃止。イギリス式軍制を導入。

何のための騒動だったのか・・・○| ̄|_

これら騒動で相良藩は改革が進まず、明治維新では新政府軍に参加し旧幕勢力と戦ったものの、小藩でもあり目立った活躍はありませんでした。

こうして徳川幕藩体制は終わり、時代は明治となって廃藩置県で相良藩は廃止となりますが、旧時代を引きづった出来事は、球磨の地でしばらく続きます。

(*1)
文久3年7月2日(1863)生麦事件の責任を問うイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘。薩摩は上陸阻止するなど善戦したが、鹿児島城下を焼失する被害を受けた。この戦後交渉が、英国と薩摩藩が接近する契機となった。

(*2)
高島秋帆によって始められた西洋式砲術。高島は西洋砲術の優秀さ知り、オランダ人などから洋式砲術を学び私費で銃器等を製造。天保5年(1834)高島流砲術を完成させた。天保12年(1841)5月9日武蔵・徳丸ヶ平において日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。後に保守派等から嫌疑を受け投獄などにあいながらも、砲術訓練の指導に尽力。国内の近代軍制に与えた影響は大きい。徳丸ヶ平は高島の演習以来、高島平と呼ばれるようになった。

(*3)
オランダ式軍制導入に為、また薩摩藩から五千両借りています。いや~もぉ借金まみれの相良藩です!!